もの大切は神さま大切
あるとき初代大先生が、修行生の湯川誠一先生にこう言われました。「今日は万事休すであった」。
初代大先生が大便所で用を足していると紙がなかった。和服の懐を探ると紙がある。御礼申しながら出すと、紙は紙でもお札でしかも十円札でした。当時の十円は高額で、ご本部参りの往復運賃、お供えと宿代まで出してもまだお釣りがくる額だったそうです。その価値ある十円札が便所のなかでは価値がない。大先生がお願いしていると袂たもと
の着物と襦じゅ袢ばんの間になにかある。引っ張り出してみると半切の半紙でした。やれありがたいと、それで用をすませたと。半紙半分が十円札より価値があると神さまから教えられた、そう誠一先生に語られたそうです。これは「湯川誠一教話抄」にある話で、さらに半紙の話が続きます。
信者さんが「五十日祭の偲草(しのびぐさ)を用意できません。おかげいただけますよう」と初代大先生に申しました。すると大先生は「半紙にしとき。半紙なら教会にあるから」と教会の倉から半紙を出してお下がりを渡しました。教会はご神米の上包みやご祈念帳など半紙をよく使います。当時は教会に限らず半紙はよく使ったらしく、中元や歳暮に
半紙を届けたと誠一先生は述べておられます。人力車で運ぶほどその信者さんはいただいて帰り、よいものをもらったとみんな喜んでました、と報告したそうです。今日の書道の紙という以上にいろいろな用途で使われ、もっと身近なものであったことが想像されます。
その辺に落ちていた半紙半切を初代大先生がもったいないと拾って袂にいれられ、それが便所でまさに必要なときに出てきたというのは、半紙がいつも周りに存在したという背景があってのお話だということがわかります。
〇ものがあふれる世の中でも
初代大先生の時代、戦前までは今よりずっとものの乏しい時代でした。ですからものを大切になどということは当たり前のことでした。それに比べれば現代はものがあふれている時代です。
まったく違うわけですが、では乏しい時代の初代大先生の御み教えは今にあてはまらないか、というとそんなことはないと私は考えます。
ものを大切に、ということはけちけちして貯ためこみましょう、というのとは違う。必要ならば大胆に使うことだってものを大切にする(生かす)、ということになるからです。「教話抄」のお話にありましたように、当時は使い道の多かった半紙でも、初代大先生はこの人には要ると判断したから気前よくお下げになったわけです。
いくらものが多くあっても整理整せいとん頓ができず、ゴミ屋敷で暮らしているようなら豊かな生活とはとても言えないでしょう。ものに対して、神さまが私たちに差し向けてくださった大切なものだという感覚をもたなければならない、ということを繰り返し初代大先生は説いておられるのです。
それができればものの方から私たちに寄ってきてくれる。服を大切にすれば服がきてくれる。お金を大切にすればお金の方から寄ってきてくれる。しかしそれは信心しての話です。たんに丁寧に管理すれば〝もの大切〟ではない。神さまの御おんものとして、いや神さまの一部として扱わしてもらうというのが信心する者の行き方です。
かつて四代金光様が「下駄に御礼申す事、なかなかできなかったぞ」とおっしゃったことがあります。祈ることばかりが信心ではありません。頭でわかっていても行じていかなくては信心になりません。
ものを大切にするということは、信心を生活の上に現していくということでもあります。
(玉水教会 会誌 あゆみ 2026年6月号 に掲載)



