神さまにおすがりする
おかげを頂きまして初孫が生まれました。赤ちゃんはどこの赤ちゃんでも、見ていて飽きるということがありませんね。自分の孫となるとさらに格別でありまして、そうやって孫を見ていると娘たちの幼いときのことなどもよみがえってきたりします。たとえば子どもを連れて歩くのに、抱っこ抱っことせがまれ、ずっと抱いているのはしんどいものです。逆に手を振り払われてすたすたどこかに行ってしまい、迷子になられても大変です。しっかり親の手を握って自分で歩いてくれると助かります。そこら辺りのことは神さまとわれわれ(氏子)との間でも同じことが言えます。
初代大先生は「神さまにおすがりするのとぶらさがるのは違う」とおっしゃっています。親になると実感しやすい教えです。
ではどうすれば、神さまにぶらさがらない信心ということになるのでしょうか。
信話集を開くと多くの挿話=例題を見出すことができます。「頭が動かんと尾は動けぬ」という人がいました。主人(経営者)の働きが鈍いと奉公人(従業員)は働きにくいと愚痴を言っていたのです。それに対して初代大先生は「いやいや尾が動かんと頭は動けんのだ」と切り返します。初代大先生はただ主人の弁護をしたのではありません。信心に置き換えて、氏子が働かないと神さまは働いてくださらないのだと教えて働く尊さを説かれたのでした。
〇ものの大切さを知る
私はものの大切さを知ることもぶらさがらない信心に通じると考えています。お金大切、たべもの大切・・・ことに金光教ではお水は身近であるだけに天地のお恵みの最たるものとして大切に扱わなければならないとされています。ただ注意しなければならないのは大切にする、生かして使うのとけちけち節約すればいいのとは違うということです。
金光教学院で学んでいるとき茶碗やお椀は自分のものを使いそれぞれが食後洗い収めて食事の際配膳係が並べるというきまりになっていました。誰かがお水は大切なものだから少量で洗うものだと言い出し、私も真似しておりました。ところが配膳係になり明るい食卓のもとに並べてみると私の食器はいかにも汚い。よごれが落ちていないのです。あわててたっぷりの水を出して丁寧に洗いなおしました。お水を生かすのにはけちればいいというわけではないということを学びました。ものの命を生かし切って使わせてもらうということが大事なのです。
食事のときお醤油を出しすぎてあとに多く残すのもよくないことです。私も子どものときはじゃぶじゃぶかけて残してしまい、そのつど注意され注意され改めることができました。なに今日日(きょうび)お醤油くらいちょっと多くかけたってたいしたことはないでしょう、という方もいるでしょう。しかしこれはお醤油がもったいないということばかりではありません。暮らしの隅々にまで心を遣つかっていきましょうというたしなみの話でもあるのです。
たしなみを身につければ一生ものです。神さまにかわいがられることにもなります。ぜひお子さんに伝えてください。難しいかもしれませんけれどもおじいちゃんおばあちゃんにもやってほしいことです。
私も(心を鬼にして?)孫に教えていきたいと思っております。
(玉水教会 会誌 あゆみ 2026年3月号 に掲載)



