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ある日の述懐


毎月お朔日のお祭りのあとに「ある日の述懐」を棒読しています。「ある日の述懐」は、大正十五年(一九二六)のある日、初代大先生が初代大奥様相手にお道への思いを語られていた内容を、弟子の澤田定治郎先生が書き取ったものです。四百字詰め原稿用紙に換算して、五枚はあります。信話集の最終巻、十六集の冒頭に収めてあります。

 「死んだと思うて欲を放して天地金乃神を助けてくれ」という神さまから教祖さまへのお頼みを、西郷さんの話に関係づけて、うまく語っておられます。西郷さんについて「金もいらん、名もいらん、命もいらんというようなものは始末に困るが、そんなものでないと国家を論ずるに足らん」。その精神は「人を相手にせず天を相手にせよ」ということで自分の行こうとする道もその道だ。「欲があったらいかんねん。いささかでも。死んだと思うねん」とおっしゃっています。非常に深い話であると思います。

〇「純」は「鈍」に通じる
 私は金光教学院での修行時代、このお話に助けられました。何度も何度も読みこみました。当時の旧版・青表紙の『信話集』では、第九集の冒頭に掲げられていました。
 そのころ、卒業をまじかにして私は悩んでいました。自分は玉水に帰って御用できるのか、そんな不安がすぐに頭をもたげてくるのです。

 ですが「或る日の述懐」を読むうちに気づきました。「教会に帰って人を助けなあかん、信者を減らしたらあかん、教会を維持していかなあかん…。そういった思いは欲である。そういう思いは必要ないんや」。教会へ帰って「ご祈念の座、取次の座を継がしてもらっても、歴代大先生のみたま様がちゃんとおられて、その徳がそこにつまっている。そのうえで御用させてもらえばいいんや」と、とても楽になりました。「ある日の述懐」でも「(あとをやる者は)純でさえあればよい」とおっしゃっています。

 純とはどういうことかもずっと考えてみました。
 初代大先生の信話に「運、鈍、根」というお話があります。世間で成功していく条件については「鈍、根、運」という順番が正しいと、初代大先生が信心から掘りさげられたお話です。

 運をつかむ、粘り強く取り組む、根気よく続けるといった要素の中で、初代大先生は「鈍」こそが大事であるとされます。世間でも才走った人はだめで、一呼吸おいて考えていく鈍という行き方に価値を見ますが、加えて、信心していくと自分が神さまの前では小さくなるということをおっしゃいます。金光教教師は大勢いるが自分ほど足りぬ人間はない。また逆に自分ほど神さまから足していただいている人間もいない、と言い切られます。鈍の価値を信心の上から説かれています。

 私は「ある日の述懐」の「純であればいい」という一節は、この「鈍」に重なるのではないかと考えます。純は鈍に通じるのです。

 教会に帰っても一信奉者として信心を進める。その中で教師という立場をいただいて御用をさせていただく。「自分は信心できているんや。立派なんや」など思ったら、そこでおしまいなのです。

 「足りん人間なんや、足りんから神さまに人の何倍も祈って祈って足していただかなくてはならんのや」。鈍とは純とは、そういうことだと思います。

 金光教の信心はいつも自分ほど足りないものはないという自覚をもつところから始まります。
だからこそ神さまに足していただくことができ、おかげをつかめるのです。

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