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お参りは自ら求めること


初代大先生はお参りについてはご自身よくお考えになり、実証的な実験までなさってさまざまなことを私たちにみ教えくだされています。

 初代大先生は、信心はじめ、教会の先生が「参れ、参れ」と言われるのが腑(ふ)に落ちませんでした。神さまは世界中におられるはずで、教会の神さまも家に祀(まつ)ってある神さまも変わりはない。家で拝んでいてもいいはずだ。なのに教会に参れというのはおかしい。教会の維持経営のためではないか。そう思って、ソロバンにきいてみようと取り組まれました。

 「お参りをソロバンではじく」という実験をなさったのです。六ヵ月せっせとお参りする。次に六ヵ月やめてみる。次にまたお参りすると、また忙しくなってきたのは七ヵ月目になってから。では一月(ひとつき)周期ではどうだろうかとやってみる。十日では、と試みてみる。というふうにいろいろやってみて「お参りは金儲(もう)けだ」と確信されたのでした。「これだけのことがわかるのに、せんど骨折って五年もかかってます」。

 初代大先生は、お参りについてほかにも説いてくださってますが、今回は一番弟子の湯川誠一先生のお話を紹介します。

○記号をつけて
 玉水教会布教まもないころのことです。商売している方が日参していました。そのひとはお参りしてご祈念がすむと初代大先生に伺いました。「昨日はどうでした?」「まあお礼が足りんかった」「どこの何が足りんかったんですか?」「どこそこが足りんかった」と、そのひとが得心のいくように説明され「△にしとこうか」。次の日は「昨日はどうでした?」「昨日はな、まあまあやな。○にしとこうか」。また次の日にも「昨日はどうでした?」「昨日は、商売において何時頃こうこう思って、まあそのことは思いが足りんかった」「考えてみたらその通りのことがあったな」と「じゃあ×印にしようか」。

 つまり大先生はお広前におりながら、そのひとの暮らしぶりについて手に取るようにご存知で、○△×の記号で評価されていたのです。霊妙なご神徳といわざるをえません。しかし教祖さまも、遠く離れた参拝者の家の様子をズバリズバリと指摘し「合わせ鏡のようにみえる」とおっしゃったという伝えがありますので、金光教の神徳の現れ具合からすると、不思議なことではないのかもしれません。

 その人はつけられた記号をみて、「○は月に二つ三つしかない。それでも商売は上向いている。ありがたい。もっともっと信心していこう」と思ったそうです。

 ところが、結局そのひとの信心はながく続かなかったそうです。誠一先生はそのひとのお参りは神さまに向いているというより大先生に向いていた。大先生を頼っていた。信心は、またお参りは、そうであってはならない、と説かれています。

 大先生に記号をつけてもらって「昨日はあかんかった」「今日はよかったんや」と、そういう思いばかりでは信心は違ってくる。
 一心に神さまに向かっていく。そうしても思い通りのおかげにならないときもある。そこで考える。わが心から練りだすわけです。
 
 お礼が足りなかったな。思い違いがあったな。そうやって、自ら求め求めていくことが足信心であり、身についていくものなのだ、と誠一先生は力説されています。初代大先生も反省されたのでしょう。こういう話は、以後見当たりません。

 ただお参りするだけでも、もちろんおかげはあります。しかしどうせお参りするなら、信心を自ら求め求めて信心を大きくし、大きなおかげを蒙(こうむ)ってまいりましょう。

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