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神さまがありがたい

 信心はじめというのは割とおかげを頂きやすいもののようです。やはり信心してもらいたいという神さまの思し召し(おぼしめし)からそうなるのでしょう。
 問題があって教会にお参りしてお願いする。すると何か知らぬうちにうまくいっている。あ、いいなと思っていると別の問題がでてくる。でまたあわててお願いする。おかげになる。ここで一服だと、休もうとすると違う方面のトラブルがあり、またお願いするとおかげになる。その繰り返しのなかで次々問題が起こってきてもおかげが頂ける、ありがたいことだなと実感する。信心はじめはこういう風ではないでしょうか。
 ただこの「ありがたい」はものごとが成就する、おかげがある、そのことがありがたいのレベルです。
 お参りしてお話を聴く、先輩たちの信心ぶりをみると、どうも信心の世界というのはもう一つ奥が深く、そこへ達するともっとおかげが頂けるようだと気づく。そこは「おかげ」がありがたいのではなく「神さまがありがたい」という世界です。
 当然自分も取り組んでみる。簡単な話のようです。しかしやってみるとこれがなかなか難しい。
 教祖さまは「信心は容易なものだ」とおっしゃる。確かに金光教の信心は頭で理解するのは難しくない。ああ、そういうものか、とわかる。しかし実際にやってみるとなかなかできない。初代大先生が「信心を行じていくのはなかなか難しい。私もできずに声をあげて泣きました」と言われるのはここです。

〇分かる、しかしできない
 私が信心に意識して取り組むようになったのは金光教学院に入ってからです。そこでは信心の修行ばかりをするのですから、「神さまがありがたい」と心から思えるようになるのが信心の第一歩である、ということにはすぐに気づきました。
 ところがわかっているのになかなかできないのです。私なりに夢中で修行しました。例えば毎日3時に起きて金光様のお出ましを拝し、そのあと4時からのご祈念もいただきました。するとわかったことは「金光様がありがたい」ということでした。毎日早朝淡々とお出ましくださり、私たち学院生はもとより全教、いや世界のことを祈ってくださる。本当にありがたい。金光様は目に見えるお方で、私が立ちすくんだ時も導いてくださったはっきりとしたご存在だからありがたいと言える。しかし神さまがありがたいとはなかなか行けないのです。神さまを信じないとかお願いしても無駄やないか、なんては思わない。しかしとことん信じていると言えるかというと…。卒業のころ「神さまがありがたいと心から言えない私が金光教教師になってよいのでしょうか」とある先生に相談したくらいです。教会に戻り三代大先生のもとで御用しながら信心を進めて、神さまがありがたいという境地が段々わかるようになりました。
 しかし神さまがありがたいなあ、と心から思えるようになったと言って、願いが百発百中通るようになったなんてことはありません。
 おかげ頂ける時もあれば頂けない時もある。でも頂けなくても、神さまは私を嫌っているんやないかなんて思わない。神さまのご都合があり、のちのもっと大きなおかげの布石かもしれん、あるいは私になにか慢心や足りないところがあっておかげにならんかったのかも。それはどこやろ?とか、神さまを責めるのではなく自分の信心を振り返り改まっていく。
 ともかくも、神さまにいつも心からお礼を申すことが信心のもとでありますので、にちにち取り組んでまいりましょう。

(玉水教会 会誌 あゆみ 2026年7月号 に掲載)

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