神代と人代
教祖様は人間の生き方に対して、厳しく教えておられる御教えがいくつかあります。例えば
「人代(にんよ) といって、何事も人間が自分の力でしている。このたび、神が人の助かる道を教えたが、それに背く者がある。神の教えどおりにするものは、神になる。昔は神代といったが、今は人代である。昔に戻り、神代になるように教えてやる。難儀を起こすのもわが心から、安心になるのもわが心からである。(「金光大神」四七一頁)
初代大先生に即してこの御教えを説明いたしますと〜湯川安太郎青年は信心し始めて商売していたのですけれどもうまくいかんかったわけです。
十三年間苦しんだのです。結局なんでおかげいただけないかと考えたときに「自分は神さまにお願いしているつもりが、神さまではなく自分の腕を拝んでおった」と気付いた。「自分が、自分が」という思いをずっと持っておった。つまり人代の世界にいたわけです。
そこで「神さまはご主人 自分は奉公人」という、すべて神さまがなさってくださる。神さまがなさることを自分は奉公人として一生懸命働かしてもらう。そこに気づいて何事も神さまを立ててというようになってきた。
神代とは、信心して神の教え通りに生き、神と人とがともに生きる世界のことなのです。ですからまさに初代大先生の「神さまはご主人 自分は奉公人」という信心の境地は「神代 人代」の御教えにあてはまるのです。
神さまとともに商売をし、ともにというより一切を神さまにお任せしていくという行き方でおかげいただいた。初代大先生は人代から神代に信心を展開していかれたのです。
初代大先生は、そうなったら「言うままのおかげ、思うままのおかげ」がいただけるとおっしゃる。言い換えれば神代の生き方に変えていければ「言うままのおかげ 思うままのおかげ」がいただける、ということです。
では神代に生きるためにはいま私たちは実際どうしていったらよいのか。もちろん金光教には分厚い教典があります。教祖さまの御教えです。あの本を覚えて全部守るようにがんばる。そんな無理なことはいりません。教祖さまの御教えというのはもし一つの御教えを完璧に守るということができたなら、ほかのすべての御教えも自然と守っているというようにできているからです。
自分の大切にしている御教えを懸命に守っていくよう信心していくと、神さまは喜んでくださり教祖さまは喜んでくださり初代大先生も喜んでくださり、大きなおかげにならしてもらえます。
〇「御礼を申さないかん」
私にこのことをしっかりと教えてくださったのは四代金光様でした。「御礼を申す」忘れてはいかん。言葉としてはわかります。しかしもう困ってどうしていいのかわからなくなっているようなときにできますか。夫が急病でえらいことになってしもうた、と動顛して神さまの前に座っていて祈ろうにもなんやざわざわして。というときに「今日まで元気で一緒に過ごすことができてありがとうございます」なんて御礼をいうことは簡単にできることではありません。
で四代金光様は「世話になるすべてに御礼を申す」ことに骨を折れ、と。眼鏡にしろ、携帯電話にしろ世話になっている。当たり前に使ってそのまま。だから御礼を申す。とはいえすぐ忘れるのでそこは稽古です。忘れてあわてて御礼を言う。それを繰り返していくうちに御礼を申すことが体に染みついて行って人に御礼を申せるようになり、起こってきたことに御礼を申せるようになりしていきます。
やがては土壇場になっても先ほどのような御礼がすらすらいえるような信心が培えるのです。
御礼ばかり重点をおいても、お詫び申したり、岩をも貫くような一心の願いを養うことも信心だろうという人があったらそれは違います。御礼を申すことに稽古していけばほかのこともできていきます。金光教の信心はそうできています。
四代金光様は私たちが歩いていくべき道を教えてくださったのです。
神代に生きる、なんて私たちには無縁なとんでもない信心の話だと思うかもしれません。いや身近なものに御礼を言っていくという一歩からでも信心の道は続いているのです。
(玉水教会 会誌 あゆみ 2025年11月号 に掲載)



