神さまの思し召しは計り知れない
平成十一年(1999)の十二月十三日に三代大先生は帰幽されました。今年は二十六年目になります。
帰幽の一年前に体調が悪くて病院に行ったところガンが見つかりました。私もレントゲン写真を見ました。あまりの大きさにびっくりして「なんで気が付かんかったんやろ」と思うくらいの大きなガンでした。
医師から「持って数か月です」と言われました。そのとき「なんでなん。なんでやろう」とずっと思っていました。数年後には玉水教会は百年を迎える。「百年に向かってしっかり信心さしてもらっておかげいただきましょう」とお話しなさっておられる大先生自身がガンになってしまう。「神さまはなんでこんなことをなさるのだろう」そういう思いがありました。
はじめは手術できない、ということでしたので入院して抗ガン剤を打つということになりました。大先生は「こんなんさっさと取って早はよう御用がしたい」と言われる。私もその思いで祈ってましたら手術できることになりました。
ところが手術が中々終わらない。二十時間以上かかって終わったのは深夜でした。おかげいただいているんや、これは治るんや、と思いました。
三代大先生はそのとき六月の独立記念祭で教師になって四十年という四十年褒賞を受けることになっていました。ご自身「ご本部に行かしてもらって褒賞を受けるんや」とおっしゃっていました。
三代大先生がそうおっしゃるならきっとおかげいただけると私は信じてました。そのとおり三代大先生はご本部に参って褒賞を受けました。
しかしその後ガンが再発してすごい勢いで大きくなりもう手術はできないことになりました。
ずっと弱っていかれ、治るもんやと考えていた私も「駄目なんかもしれん」と悲観しはじめました。
そうなると「なぜこんなことに」という気持ちがもたげてきます。
一年の闘病でお隠れになりました。
〇難儀には意味がある
大先生が生きておられる間は「お手代わり」でした。なにがあっても「大先生、大先生」と最終的には大先生がいらして責任を負ってくださるという気持ちがあります。亡くなられてからはそうはいきません。責任のもっていきどころがありません。ですから信者さんのご祈念しておっても違ってくる。一生懸命です。前はいい加減だった、とは申しませんがやはり違う。真剣さが違う。
そういうご祈念を続けているうちに「これが十年遅れたら…」と気付きました。五十過ぎていきなり教会長になったらもっときつかったろう、と。
三代大先生が早く亡くなったから若いうちから取り組ませていただけた。神さまは私のことを考えてこういうようにお取り計らいなさったのではないか。
「もうちょっと長生きしてくれはったら」とかばかり思ってました。いや三代大先生は七十歳であったが九十歳分の御用をなさっておられた。そう思うと「神さまは私の成長するようにという思し召しもあるのではなかろうか」こういう気になって御用していると御用が一層ありがたくなっていきました。
「なんでやいなあ」という思いが神さまに懸命に向かっていくうちに「神さまに私を早く成長させてやろうというお心がおありだったんやな」と分からせていただけるようになりました。
難儀には必ず意味があるのです。神さま放さず一心に信心していけばお計らいが分からせていただけます。
(玉水教会 会誌 あゆみ 2025年12月号 に掲載)



