真にありがたしと思う心
あけましておめでとうございます。令和八年二〇二六年の新春を迎えました。
教会に初詣なさる方は、みなさん新年を迎えて清々(すがすが)しい、ありがたいことだと感謝の気持ちでいっぱいになってお参りされることと思います。
「去年はひどい嫌なことばっかりやった。ことしはあんなことがありませんよう」なんて人はいないでしょう。
去年一年の御礼を申し、ことしもしっかり自分の役前を果たせますようにと祈っていく信者さんばかりと思います。
ただ私たちの心というのは転がりやすい。お正月の清々しい気分に浸っていたり、教会に参ってお祭りをいただいているときは「ありがたいな」と感じていても、ちょっと自分の気に入らないことが起こると感謝の気持ちはどこかへ行ってしまい不平不満ばかりになります。
初代大先生のお話に銭湯での話があります。
風呂屋の浴槽につかりながら「ありがたい、ありがたい、ナンマイダブ」と声を出して唱えている人がいた。そこへ知り合いが入ってきて世間話が始まった。
そのひとは自分の息子の話をしだし、うちの息子はしょうもない極道でこないだも金を持ち出してどっかに行ってしまい一週間も帰って来んかった。とんでもない息子だ。と、さんざん息子の愚痴を言って、話がすむとまた「ありがたい、ありがたいナンマンダブ」とさきほどのように唱えだした。というのです。
愚痴の合間に御礼をいってもこれではありがたいということにはなりません。
信心していてもふだんはありがたいありがたいと思っていても少し不安なこと不平言いたいことがあるとそっちへ心が持っていかれがちです。それはひとつには、ただありがたいというのと「神さまがありがたい」のとでは違うということです。信心の稽古とは、辛い苦しいことを我慢しろというのではありません。辛いことから神さまに目を向けて常に神さまを意識する生活になるよう努めていくということ、です。
〇喜びに喜んで
初代大先生は「弓張提灯持って回ったころのこと忘れてない」と晩年奥様に語られました。弓張提灯持って、というのは商売されていたころのこと。大先生にとっては一番辛い苦しい時代でした。神さまが大先生に与えた試練の時代です。その苦難を通して初代大先生は信心を練り「神さまはご主人 自分は奉公人」の境地に達せられました。
初代大先生はそのころの苦難を思うことにより神さまが自分にかけてくださったお心を忘れぬようになさっていたのです。神さまのありがたさを自分の辛いときを振り返ることによって再確認していく。
私たちもおかげいただいたら、済んだ済んだと忘れてしまっては信心のし甲斐がありません。辛いときから今日おかげいただいているまでのことを思えば、世界はありがたいことばかりではありませんか。
教祖さまの仰る「真にありがたしと思う心すぐにみかげのはじめなり」とはこういうことだと考えます。私たちがあれもありがたい、これもありがたいと喜んでいれば、それを放っておくような神さまではありません。おまえたちをもっと喜ばしてやろうとおかげをくださるのです。
教祖様初代大先生のたどった道をしっかり歩んで信心の稽古に進んで参りましょう。
(玉水教会 会誌 あゆみ 2026年1月号 に掲載)



