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神さまに助けてもらったこと

 金光教学院で修行しているころ、私は初代大先生の「一度や二度神さまに命を助けてもらわないと本当の取次者になることはできない」という言葉を知りました。
 自分は大病をしたことも大けがをしたこともない。神さまに助けていただいたという経験がない私が学院を卒業して玉水教会に帰ってお取次の御用が務まるだろうか。そんな疑問を持つようになりました。
 そこで信心進修の場である修徳殿に入殿したとき輔導の先生に質問してみました。「私、神さまに命を助けてもらったという経験がないのですけれど、それでもお結界に座って御用ができるでしょうか」輔導の先生も私の問いかけを受けていろいろお話ししてくださいました。そのとき「あなた、本当に神さまに助けてもらったことがありませんか」と逆に聞かれたことが胸に残りました。
 こちらはそんなに助けてもらったことがないからどうなるのか、と聞いているのに「本当にないの?」と言われてどういうこと? と思っておりました。
 思っているうちにふとアメリカに留学していたときのことが浮かびました。

 〇やっぱり助けてくださっている

 アメリカは車社会ですから毎日相当な距離を自動車で走ります。一般道でもかなりのスピードを出します。ある日、一般道を気持ちよく走っていたら、前を大きな人が四人くらい乗ったアメ車が煙を出しながら走っていました。追い越し車線でゆっくり走っているので、「うっとうしいなあ。抜かそう」とハンドルを切ったとき、空にきらっと光るものが見えました。真横に鉄板が落ちてきました。前の車が急ブレーキをかけ、私が追い抜くときに見るとボンネットがなかった。車がボロすぎて風圧でボンネットが飛び、私の真横に落ちてきたのでした。一秒遅かったら、と震えました。心から神さまに御礼申しました。
 こんなこともありました。スーパーで買い物していた時、店内がざわざわしているんです。私がいた商品棚の通路には私ひとりでした。騒ぎのするほうへのぞきにいくと、警官が「フリーズ(動くな)!」とか言って銃をかまえているではありませんか。びっくりしてそっと出て、一目散に車に乗って逃げだしました。まかり間違えば私が人質になっていたかもしれないようなことでした。

 ですからやっぱり神さまに助けてもらっているのだ。大病だ、大けがだ、という前に助けてもらっている。その幸運の陰には大阪で私のことを祈ってくださっていた二代大先生、父のお働きがあればこそということに思い至りました。
 命を助けてもらったことはないどころか、いくつもあったわけでした。神さまのお働きのなかで生かされているということを実感しました。

 初代大先生のお言葉も、強烈な体験があればいつもいつも神さまのお働きを忘れることはない、いつも肌身離さず神さまからのご恩を感じているだろう、その思いこそお取次に欠かせぬことなのだ、というようにとれます。
 神さまに対するご恩ということが信心するものの土台です。やがて、あれもおかげであった、これもおかげであったとわかるようになる。そうなると本当の信心だ、と教祖様は教えてくださっています。「ああそうや、おかげいただいたんや」ということが次々増えて、神さまを心からありがたく思わせていただける、そういうおかげを蒙ってまいりましょう。

(玉水教会 会誌 あゆみ 2025年9月号 に掲載)

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