お米

最近お米のニュースをよくやっています。五キロ二千円くらいだったのが五千円くらいに上がって、しかもそれさえ手に入りにくくなってしまった。小泉さんが大臣になってから備蓄米や古米がたくさん売りだされることになって、古いお米なのにあっという間に売り切れたとかいうことなんですが。私は子供のころはそうでもなかったのですが、いまはご飯が一番好きです。お米ほどおいしいものはないと思います。
アメリカに留学した時、ロッキー山脈の麓のコロラド州ボルダーという町に住んでいました。大学のカフェテリアで食べていましたが、二週間ほどするとお米のご飯が食べたくなりました。カフェテリアにも置いてあるのですが、ぱさぱさなお米でおいしくない。ああお米が食べたい、おいしい日本食が食べたいとホームシックになってしまいました。そのうちに町に日本食レストランがあることを知りました。早速行きました。しかしまずくて高かった。ラーメン一杯十ドルくらい。もうあきらめました。
その後カリフォルニアに移って、スーパーでカリフォルニア米というのをみつけました。憲一先生に聞くと「あれはおいしいで」ということで、炊いてみたら日本のお米とあまり変わらん、ちょっと固いくらいで、それからはしょっちゅうご飯を炊いて食べていました。
ですから日本に帰っても「お米が一番好き」と心から思いました。外国に出てお米の尊さ、おいしさを痛感したできごとでした。
〇お米に信心をかける
お米というのは、玉水教会信奉者には特別な意味をもった食べ物であるといえます。初代大先生は明治三十八年、五円のお金とお米一斗五、六升のみをもって布教に出られました。一斗五、六升といったら二〇キロくらいでしょうか。
一週間して奥様が「お米が切れたので買いにいきましょうか」と言ってこられました。すると初代大先生は「あんたは悪い病気にかかっている」と言われる。「いいえ。私はどこも悪くありません。いったい何病にかかっていると?」「お米食べたい病だ」この一言で奥様は「わかりました」と即座に理解され、引き下がられました。
それは、布教される前に初代大先生が奥様に「夫婦別れしたい」と切り出し「私はこれから好きな仕事をして死のうと思う。あんたを巻き添えにするのは本意ではないから」とおっしゃって、包み隠さず布教に出ること、飢え死にも覚悟されていることを告げられ、奥様の「ついていきます。骨になるならともに」という決意を聞かされて、ご夫婦で教会をはじめられたという経緯があったからです。
初代大先生は三十三歳の時「神さまはご主人自分は奉公人」の境地に至り、そのご信心を身上(しんしょう)にして玉水教会を開き、困っている人々を救い助けようとなさいました。
商売ばかりでなく教会経営の上にも「神さまはご主人自分は奉公人」の信心は成り立つのか、それはお米にかかっていたのです。神さまが入用(いりよう)すべてを調(ととの)えてくださるはずで、お米のおさがりがなければ餓死するまでだ、という初代大先生ご夫妻の決死の思いは、時代が変わり食の状況が全く変わった今の私たちの胸を打ちます。
翌日たくさんのお米のおさがりがあり、この実験はあっけなく終わりました。しかし時代が変わろうとも、私たちはお米にかけた初代大先生の祈りを常に思い起こして、信心のよすがとしていくべきではと存じます。
(玉水教会 会誌 あゆみ 2025年7月号 に掲載)