神徳
不思議な力というものには誰でも惹(ひ)かれるものです。信心の世界でも、あの人は神さまと交信できると聞くと興味津々でそんな方に会ってみたいとなるのが人情でしょう。
神さまからお知らせがあれば、世渡りも信心も楽にいくと思えます。金光教では、ふつうそういった不思議な能力のことを神徳といい、そういう力を持った方を神徳家と呼びます。
かつて金光教には神徳家と言われる先生がかなりおられました。神徳家の先生の教会は、お参りも多いご比(ひ)礼(れい)が立っている教会ばかりでした。
しかし神徳家の先生が亡くなって、子どもさんとか修行生とかお知らせをいただけない先生がお結界に座るとなるとお参りは急減します。
信者さんたちは神さまを拝んでいたのではなくて、その先生を拝んでいたからです。そして別の神徳家の先生に移っていったのでした。
初代大先生も生前は神徳家の代表のように言われていました。ですから親しい先生たちから「あなたのあとをやる人は難しいねえ」と忠告を受けていました。それは先のような事情があります。そのことは『信話集』に詳しく書かれています。『信話集』では後継という観点からのお話ですが、ここでは神徳ということを軸にして話を進めてみます。
○神徳を培うには
初代銀座教会長夫人湯川ツヤ先生が弟子におっしゃっていた言葉に「信心していくのに大切なのは〝神さまからお知らせをいただくこと〟ではない。どんな窮地に陥ってもたじろがずに神さまに通っていくような〝強い祈り〟をもつことだ」というのがあります。ツヤ先生はいうまでもなく初代大先生の長女で、夫である初代銀座の先生や、弟である二代大先生をかげから支えて大きな働きをされました。神さまからお知らせをいただける神徳家であり、また広い視野をもち理詰めで信心を考えることができる方でした。ツヤ先生によれば神徳とは強い祈りをもつということなのです。確かに、神さまから「これは難しい」といわれてあきらめてしまうような信心より、どうしても「どうぞどうぞ」と貫いていくほうがしっかりした信心といえましょう。
問題は、その神徳を得るにはどうしたらいいか、ということです。
世の中には滝に打たれたりして霊力を得るという行き方があります。しかし金光教はそうではありません。
例えば私が若い時、お導きくださった四代金光様は「まず御礼」とおっしゃいました。常に御礼です。下(げ)駄(た)に御礼を申すこと、メガネに御礼を申すこと、中々できなかったぞと教えてくださいました。四代金光様は、御礼を申して御礼を申して、信心を培い神徳を積んでいかれたのです。
二代大先生は一日の御用を終わって振り返り反省して改まりを見つけていくことに骨折られていました。「ただお結界に座ってご祈念してというだけなら商売勉強励んでるだけ、信心はそこからだ」と弟子に教えられてます。初代大先生が伝えた神徳の積み方を実践していかれました。
初代大先生は「信心さえ熱心にしとりましたら神徳は受けられます」と保証してくださっています。
そもそも私たちは親が積んでくれた神徳、初代大先生、歴代大先生の神徳に包まれているからこそ、拙(つたな)い信心でもやっていけているのです。そのことに感謝しつつ、少しでも神徳を培っておかげを頂いてまいりましょう。
(玉水教会 会誌 あゆみ 2024年10月号 に掲載)