第1章:幼少期・少年期
(1)六歳の子が、その日も麦を刈っていた
初代大先生は、明治三年(1870)一月十一日、和歌山県海草郡湊村の御膳松で誕生されました。断髪令の出るのが翌年ですから、ちょんまげ時代の最後の年です。湊村は現在では和歌山市の一部。また御膳松という地名は、昔、紀州の殿様がその近くの小さな丘の、松の根方で食事をされたことから、つけられたものだそうです。
家は農業を営んでおられ、家族はご両親と、お姉さんが一人に妹さんが二人でした。当時のことですから、師も小さい頃から農作業を手伝っておられたようです。
また、村のお寺の境内が子供たちの遊び場所になっており、そこの住職だった尼さんから、誉められた話も残っています。
「村の人が、あんたのお父さんのことを千年暦と言うが、あんたは万年暦じゃ」
千年暦というのは、もの知りとか、もののわかった人のことですが、小さいながらも受け答えが賢くて、尼さんを感心させたのだそうです。
光景も雰囲気も、多分まだ江戸時代そのままだったおだやかな農村で、師は、まずは幸せな幼少期を過ごしておられたのでしょう。
しかし、五歳のときにお父様が亡くなられ、師の境遇は一変します。女手ひとつで子供が四人という農家暮らしは難しく、翌年には家と田畑を処分して、家族は離れて暮らすことになりました。お母様と妹さん二人は実家に身を寄せられ、お姉さんと初代大先生は、それぞれ別の親戚に預けられることになったのです。
その出発の日、師の姿が見えないので皆が探したところ、畑で麦を刈っておられたというお話が伝わっています。まだ小さいから、母親と別れるのがつらいのだろう。無理もないことだ……
そう思って探していた親戚の人たちが、驚いてわけを聞くと、師は、「親戚の家へ行けば、もう手助けができなくなるから、いま刈れるだけ刈っておけば、少しでもお母さんの助けになるだろうと思って」と、こたえられたそうです。
このお話については、後年、二代大先生(湯川茂師)が『先代を語る』(玉水教会。昭和五十九年刊行)のなかで、「考えてみたら、六つですなあ。満六歳で、そんなに親のことを考えられるかしらんと、私は疑問のような気もする」と言っておられます。「まだ小学校へも行かぬ六つぐらいで、麦を刈るという、そんなことができるかしらんと、いまだに不思議に思うとります」が、「その時分からやっぱり、親を助けたいという、そういう思いが強かったらしい」との感想です。 しかしそれでは、そのとき師は、勇んで刈っておられたのでしょうか。それとも涙をこらえながらでしょうか。そこを想像していただければ、このお話も単なる孝行美談にとどまらず、師の人間形成の足跡を、情がともなったかたちで理解していける、一助になるのではないかと思います。
(2)動物でも恩を返す話に、胸をふるわせ感動した
師が預けられたのは、和歌浦で「河清」という鮮魚問屋をいとなむ、母方の親戚でした。そのときの当主は五代・土居清五郎という人で、家にはそのご主人夫婦と、まだ小さい女の子が二人。それから先代のご主人夫婦と、遅くにできたその子息もおられました。
代々の商売を手広くやっており、もちろん当時のことですから、住み込みの使用人たちもいたわけで、かなり大きな家だったとのことです。 ただ、当代と先代の両夫婦は暖かく接してくれましたが、先代夫婦の子息にはいじめられたそうです。師より四歳上の彼は、二代大先生の表現をお借りすれば、「あまり出来がようない」人だったとのこと。対して師は、小学校に行かせてもらいつつ商売を手伝い、利発さを示しておられましたから、妬まれたのも理由のひとつでしょう。 子供ながらに精一杯気を遣っている者に対して、居候扱いをする。日々の生活のなかで、種々いやがらせの言動を示したりする。立場上、それを辛抱していくのが大変だったそうですが、現代風に、小学校の低学年生が、抑圧、プレッシャーを受けていたと考えてみれば、それに負けて崩れるか、ぐっと耐えて心を強くしていくか、その分かれ目だったことがわかります。
その間、師は小学校の修身の教科書で、生涯忘れられない感動を味わわれました。ほんの数ページにまとめられていた、ふたつの「報恩」物語で、ひとつめは狩人とその飼い犬のお話です。
山に入った狩人が、疲れたので大木の根方に座り込んで眠ろうとしたところ、犬が吠えて邪魔をする。あんまりしつこいので腹立ちのあまり、狩人は山刀で犬の首を切ってしまうのですが、その瞬間、切られた首が飛び上がって何かに食いついた。実はそれは上から狩人を呑もうとしていた大蛇だったわけで、犬が世話になってきた恩返しに、自分は殺されてでも飼い主を助けたのです。
ふたつめは昔のインドのお話で、死罪を犯した者は獅子に食い殺させることになっていた。そこであるとき、一人の罪人を獅子の檻に入れたところ、獅子は飛びかかるどころか、嬉しげにすりよっていく。なぜなら、以前その獅子が傷を負って苦しんでいたとき、偶然通り合わせたその男が、手当をしてやったことがあった。獅子はその恩を忘れておらず、自分の餌を男に分け与えようとさえしたので、皆が感心し、彼は放免されることになったのでした。 そして、この二話を習った師は小さな胸がふるえるほど感動し、「恩に報いる」ということの大切さを、心の底に据えられたとのことです。 それにしても、大勢の子供達が同じ教科書で勉強して、皆が皆、同等の反応を示したわけではないでしょう。ところが師は、この二話が「どうも、気になって」何度も何度も読み返し、その教科書も十五、六歳になるまで、持っておられたそうです。感受性の鋭さとともに、心の深層か、あるいはもっと奥底の「たましい」の部分に、共鳴する何かがあったためかもしれません。
ともあれ、幸せに育った利発な子供が、境遇一変を経験し、母親を助けたいという気持ちをつのらせる。一方、辛抱我慢の日々も体験させられていく。そこにこの報恩談への感動が加わって、師の心のなかで、何かが固まり始めた時期だったと言えるのではないでしょうか。 なお、先に書いたように、当代のご主人夫婦にはまだ小さい娘さん二人がおられたのですが、その上の方の女の子が、後年、師の奥様になられます。しかしそんなことは当時、ご本人たちはもちろん、周囲の誰一人として思ってもいなかったことでした。この先、師が経験させられていく人生の荒波が、その縁を結ばせるのですが、いまはまだ、苦難の前半生は始まったばかりなのです。
(3)学校をやめさせられ、立場のつらさが身にしみた
初代大先生が預けられていた親戚は、和歌浦の「河清」という鮮魚問屋でした。代々続いてきた商売で、家も大きな屋敷だったそうですが、その頃には、衰運に傾いていました。そのため、師は店を手伝いつつ、地元の和歌浦小学校に通わせてもらっていたものの、三年ほど通った明治十三年(1880)に、やめてしまわれました。
当時、小学校は四年制で、義務教育でもなかったとはいえ、勉強が好きでまだ十歳という少年にとって、それはどれほどつらいことだったでしょう。後年、師は教話のなかでそのときのことを、「店の丁稚が一遍に三人もやめたので、自分がその代わりに働こうと思い、わしはもう学校がいやになったからやめると言って、やめたんだ」と、言っておられます。
しかし、二代大先生は『先代を語る』のなかで、「学校をやめえと言われ、そんな時には父親のない身の上の悲しさを、痛切に感じたらしい」とも、語っておられます。多分、「やめえ」と言われたのが本当でしょうが、とすると、それを「自分からやめた」と言われたときの師の心には、どんな思いが去来していたのでしょう。
また、当時の師に関しては、「松原街道のお化け」というエピソードも残っています。これは、世話になっている家の先代当主が釣り好きで、早朝から出かける前夜には、その餌にする小さな川エビを、師が買いに行かされた話です。
一里(約3.75km)ほど離れた店まで、一人で歩いて買いに行くのですが、冬の夜中など寒いので、手ぬぐいか何かでほおかぶりし、途中にある松林のなかの道を通って往復しておられたのです。するとそのうち、「あの松原街道にお化けが出る。白い頭の背の低い化け物が出る」という評判が立ったそうで、それを聞かされた師は、「ああ、分かった。それは自分自身や」と、ひそかにおかしがっておられたということです。
しかし考えてみれば、これもおかしいばかりの話ではなかったのではないでしょうか。先代当主は師に親切にしてくれ、ときには釣りにも連れていってくれたそうです。とはいえ、お化けの評判が立ったのは、買いに行かされる回数が少なくなかったからでしょう。そして師は、二里ほど離れたところに済んでおられる自身のお母様には、二年に一度くらいしか会いに行けませんでした。
だから、一里の夜道を往復しながら、世話になっている身のつらさを、思われたこともあったに違いありません。後年の師は、ご自身の幼少期のことはあまり語られなかったとのことですが、「語られなかった重み」というものがありそうで、強く鍛えた心の奥底には、やはり「哀しみ」が秘められていたのではないでしょうか。
(4)少年ながらも、大人に負けずに「競り」をした
さて。鮮魚問屋の仕事には、「競り」がつきものです。師は十三歳頃にはそれを身につけ、大人たちに伍して、立派に商いをしていかれました。前の晩から各船の翌朝の水揚げ量に見当をつけ、同業者より早く浜に出て、競りも手早くすませてしまう。小さな身体で機敏に動く安太郎少年は、耳が大きかったので「耳安」と呼ばれ、働き者の商売上手だと、評判になっていたそうです。
後に師は教話のなかで、ひとつの仕事に熱心に取り組み、習熟すると、勘が冴えてくるという話をしておられます。そしてこの魚の水揚げについても、山になったそれをひと目見ただけで、「何百何十何貫何百匁と、何百匁まで言えるようになる」と言っておられますが、師自身が当時、その勘を身につけておられたのでしょう。
ただ、この魚の競りには取引量や利益のごまかしが横行しており、むしろ、ごまかし上手が「遣り手」だと評されていました。だから師の回想では河清も、「そんな事を五代もやっていました。その代わりヨウ儲かります。ヨッポド儲かりまんねん。楽な商売であって、ヨウ儲かるが、たおされている事もまたおびただしい」のでした。
しかし師はそういう商法を嫌われ、大阪へ出られてのち、故郷の人からもう一度その商売をと勧められても、ああいう盗人のような商売は、「平に御免をこうむります」と断っておられます。
何事についても、とにかくきれいに、まっすぐにやっていきたい。その潔癖な思いが、非常に強かったことがわかります。
そんな師にとって、数少ない娯楽であり、同時に修養の糧ともなったのは、軍談(講談)でした。毎年、夏になると講釈師がまわってくるので、それを聞くのを楽しみにしておられたそうです。
余談になりますが、これは当時の芸人さんの世界で、「夏枯れ」と言われていた話と一致します。つまり大阪の町なかの寄席や講釈場は、狭くて冷房設備もないので、夏場は客が入らなくなる。そこで、落語家や講釈師は日銭を稼ぐため地方回りに出たそうで、和歌山方面もそのひとつだったのでしょう。師の経験談が、大阪の演芸史に伝わる話の裏付けになるという、興味深い事実です。
そして師は十四歳頃には、仲間と金を出し合ってその講釈師を一ヶ月ほど雇い、さまざまな話を聞かれました。現代の感覚で言えば、中学生が大人のプロを雇って芸を披露させていたことになり、時代の違いの大きさを感じるとともに、そういった面では、師がすでに「大人」並みであったことがわかるお話です。
また、講談が好きだったのは、登場する英雄豪傑から大泥棒まで、そのテッペキ(頂点)が描かれているからとのこと。孝の頂点、義の頂点、信の頂点。それらを吸収し、いわば「理想」を「現実」の目標にして自分を鞭打っておられたわけで、「とにかく前へ。テッペキまで!」という、師の気質にある「激しさ」が感じられます。
ただしこの時代の師は、信心ということについては、まだ関心を示してはおられませんでした。それどころか、信心するような者はバカで、「まともな人間なら、あんなことはするもんじゃない」と考えておられたそうです。
ですから、妙見さんを信心しておられた先代当主から、家にあるその像を「拝ましてやるから、手洗え、口洗え」と言われたときにも、「これが、そのありがたい妙見さんですか。ちょっとも仏さんらしいことない。やっぱり腕力家ですな」と言って、大変叱られたということです。妙見菩薩は怖い顔をして刀を振りかざしていますから、腕力家は、暴力をふるう者という意味でしょう。
何にせよこの当時、師は小学校をやめたあと、商売や雑用に追われる日々を送っておられたわけですが、中国の古典『孟子』には、「天が人に大任を降そうとするときには、まずその人の心身から運命に至るまでに、苦しみを与える」という説があるそうです。無論、その「大任」を知るよしもない若年時代ですが、師に与えられる「苦しみ」は、まだまだ続くのです。
(5)十四歳で、問屋商売をまかされた
師が預けられていた親戚、鮮魚問屋の「河清」には、先代と当代の両夫婦がおられました。どちらも真面目で働き者の師を大事に扱ってくれ、商売のことも親切に教えてくれたそうです。
また、その先代当主の奥様も、師が立場上いろいろ辛いめ苦しいめをして、「もう辛抱ができぬというようなときでも、陰に回って慰めたり励ましたりしてくれた」とのこと。二代大先生(湯川茂師)のお話によれば、師は後年その当時を回想して、「この人がおったから、私は辛抱を続けることができた」と、言っておられたそうです。
一方、当代の主人は師が十四歳のとき、三十八歳という若さで病没されました。生前、「おまえが一人前になってくれたら、この家も復興できるかもしれない。大変だろうけど、辛抱してやってくれ」と言われ、老齢の親夫婦と自身の奥様についても、「ぜひ面倒を見てやってくれ。だれも世話してもらう人がない。あんたにどうぞ頼む」と、折に触れて頼まれていたそうです。
店を継ぐ立場の人はいたのですが、「どうも頼りにならぬと思う。おまえでなくちゃ我々の家や店の面倒を見てもらうことはできないから、頼むから」ということだったのです。
そのため、師は十四歳で河清を切り盛りすることになったのですが、四回目の末尾でふれた「天が大任を降す者に与える苦しみ」を、このときの師にあてはめれば、次のようなことになります。
- 先代夫婦や亡くなった主人の奥様の「面倒をみる」とは、経済面でもということである。
- しかし店の内実は厳しく、前々からの借金が、そう簡単に返せる額ではなくなっている。
- なのに跡継ぎの男性は、師より四歳年長だが、商売の腕や熱意に劣り、頼りにならない。
- またその彼は、預けられてきた子供時代の師を居候扱いして、いじめた当人でもある。師は小学校を三年でやめさせられたが、その人はその後も、学校へ行かせてもらっていた事実もある。
- 一方、御自身のお母様は妹さん二人と実家に身を寄せているが、決して歓迎されているわけではなく、そちらも何とかしなければならない。
明治十七年という時代であり、数え年が十五歳で、昔の武士なら一人前とみなされる年齢だったとはいえ、このときの師に与えられた苦しみを表す言葉は何でしょう。「すさまじい」でしょうか。「いたわしい」でしょうか。
しかもそれらの苦しみには、自身が何か悪いことをしたからとか、商売で失敗したためとか、師に直接の責任があることなど、ひとつもないのです。ただしそれは、「この世」の枠内で考えればということであり、御自身の霊としての四代前に さかのぼれば、責を負うべき深い「めぐり」があるのだと、ずっと後年に、神様から教えていただくことになるのですが……
第二章:青年期
(6)金策の苦しさに、「誰か殺してくれんか」とまで思っていた
鮮魚問屋「河清」をひきうけていた時代、師は金策については苦しみぬかれました。
「もう、明けても暮れても金!金!で、借金で追い立てられる」「十三や十四はまだ子供だ。駄菓子でもしゃぶって遊びたい時分ですが、私はそんな時分から金で泣いてきたのであります」
師のこういう言葉も残されており、十六歳、十七歳の頃には、「寝ている間に、誰か来て、わしを殺してくれんかしらん。殺されたら助かるのに」とまで、思われたそうです。
そして、「あんまりつらいので、これでは生きて行けんように思い」、倉のなかで短刀を腹に当てて、自殺をはかられたこともありました。
しかしその寸前、自分が死んだらあとはどうなるか、また母親がどれだけ悲しむか、しかもその悲しみは長く続くのだということに気づかれ、あやうく思いとどまられました。後年、師は教話のなかで、「これを思い出すことが、一分間早かったために、私は死なずにすんだのです。これも、親のおかげですな」と言っておられます。
ただしその間、当時の師のことを、「親孝行で、勉強家で、真面目、正直な人だが、かわいそうに……」と思ってくれた人が、「必要なだけ、金を貸してやる」と言ってくれたこともありました。
だから師は安心し、ありがたくも思い、何度か当座の面倒を見てもらわれたのですが、ついつい、その親切に甘えるという気持ちになられたのでしょう。しばらく顔を出さず、いざというとき拝借を頼みに行ったら、「いま出したばかりでちょっともないねん。君のところへ借りに行きたいくらいだ」と、逆ねじを食わされたそうです。
それによって師は、人間、無精をしてはいけない、世話になる人のところへは、用事があってもなくても、絶えず顔を出しておくべきだと悟られたという、そんな経験もされたのです。
ともあれ、悲惨な年月を送らされた師は、遠からず店はつぶれるに違いないが、「今なら、まだ余裕があるから」と、河清を整理されました。代々の屋敷を手放し、卸し売り市場の店と営業権も譲渡して、溜まりに溜まった借金を清算する。そして別に小さな店を持ち、跡継ぎにあたる人と共同で商売をつづけられたのです。
だから師はその人に、「河清の六代目にならなければならんのだから、あんたがしっかり勉強してやってくれ」と、励ましたり、忠告したりしておられました。しかし当の本人は、身内からも「頼りにならんと思う」と言われていた人なのに、気位だけは主人のつもりでいたそうです。
といって、師にしてみれば、「商売の分からん人の言うとおりに動くこともできない」ので、共同経営もうまくはいかなくなってきました。
そこで師は考えに考えた結果、自分は思い切って身を退き、いまは親不孝のようでも、「どこかで一人前になって親に難儀させないようにするのが、本当の行き方じゃあるまいか」と、二十歳のとき、家を出る決心をされたのです。
(7)奉公先の主人は、「私の嫌いな顔」の人だった
明治二十三年(1890)の六月。二十歳の師は、いよいよ大阪へ出られました。商売人として成功し、親を引き取って孝行したい。また、世話になった親戚の先代老夫婦や、亡くなった当代主人の奥様の、面倒もみさせてもらいたい。そんな願いを抱いての出発でした。そのため、すでに大阪に出て働いている友人に前もって手紙を出し、奉公先の紹介を頼んでもおられたのです。
ただし、長年面倒を見てもらった家を出るのは、そう簡単なことではありませんでした。「河清」の後継者は頼りにならないので、皆が師の働きに期待し、商売を盛り返してほしいと願っています。それに対して、師の思いをうちあけても納得してもらるはずがないので、口実を作って、逃げるように大阪をめざされたのです。
行李(柳や竹を編んで作った荷物入れの箱)ふたつに着物を入れ、商売人らしく「前垂れ」も入れて、おかね五円を持っただけの、着の身着のままという姿でしたが、それは「物を持って出たら恥」、「物を持たず無一物からやりあげて一人前になるのが本当」だと思われたからです。美学、矜持、筋論。解釈は様々にできますが、何にせよ、秘められた決意の強さがわかるお話です。
ちなみに当時、大阪と和歌山を結ぶ鉄道はまだ開通しておらず、だから師も人力車と徒歩で出られました。離れて住んでおられる自身のお母様の家にも、ちょっと立ち寄って挨拶されただけという、慌ただしさだったそうです。
江戸時代以来、大阪は全国の物資が集まる巨大な商都でした。海産物なら、靱一帯の問屋が塩乾物、少し北西の江之子島にあった雑喉場(魚市場)が鮮魚を扱って、繁盛していました。
そして、前記の友人が紹介してくれたのは、靱の貴田商店という塩乾物問屋だったのですが、そこの主人と対面した瞬間、師は「ヒヤッ!」とされたそうです。なぜなら、それまで鮮魚問屋で大勢の人を相手に商売してこられた過程で、眼前の主人と同じような顔つきをした人に、二人ほど、ひどいめにあわされていたからです。
だから師は、「この人の顔、私の嫌いな顔や」「えらい人を主人に持ったな」と思われましたが、友人の紹介による店でもあるため、どんな人でも主人は主人と、奉公の腹を決められました。後日、待遇の相談を受けたときにも、「私は丁稚から始めます」と言われ、衣食住は店持ちで小遣いが月に一円という、そこから始められたのです。
それにしても、よりにもよって主人が嫌いな顔をした人とは。人間の側から言えば「よくよく運の悪い偶然」ですが、神さまの方からは、やはり「ゆえあっての計らい」だったのでしょうか。
おまけに当時の常識として、丁稚というのは通常、十歳前後で奉公を始めた「駆け出し」の立場です。そこへ二十歳の、商売経験も積んだ師が入られたのですから、店の使用人たちに対する気遣いも大変だったことでしょう。
「そら始めから覚悟はしておりましたが、周囲の空気になじんでいくのは、なかなか用意なことではなかったです」
後年の師の回想として、こんな言葉が残っていますが、和歌山と大阪では、生活や商習慣に違いもあったでしょうし、慣れるまでは随分気苦労もされたに違いありません。
食べ物にしても、和歌浦の新鮮な魚になれていた口には、棒鱈(乾物にしたタラ)を水でもどして炊いたおかずなど、最初はそのにおいにムッとして、もどしそうになったそうです。
(8)日本も大阪も、金光教も発展していた
大阪で奉公を始められた師には、その時代の鮮魚や塩乾物に関する商売の、人や現場の雰囲気がよく伝わってくる、愉快な話も伝わっています。
河清時代のつきあいで、師には四国や紀州に得意先がいくつもありました。貴田商店に入った当初、一度そちらへ挨拶まわりに出かけられたのですが、そのときには挨拶用に酒を買い、魚市場へ出かけて、顔見知りの人を捜されました。
そしてその舟に乗せてもらい、阿波(徳島県)まで連れていってもらって、その家に泊めてもらう。翌日は小松島で夜中の二時まで飲まされ、そのまた翌日は別の得意先の家に呼んでもらう。「あっちからも、こっちからも呼ばれて、まるで無銭旅行してるようなもの」だったそうです。
それから紀州の熊野へまわり、鯖を大量に仕入れて塩漬けの樽詰めにさせ、店を出るとき主人からもらった小遣いの十円など、軽く埋め合わせるだけの儲けをつくって帰阪されたという、活気にみちた、豪快と言ってもいいお話です。
さて。ところで。ここで、以後の師の生活と商売の舞台になる、当時の大阪について少し触れておきますと、上阪される前年に、東・西・南・北の四区を持つ大阪市が誕生しています。
近畿では同じ年に、堺、京都、神戸、姫路とともに、和歌山の旧城下区域も市になりましたが、人口は大阪市が約四十七万人で、和歌山市が五万人余りでした。ですから師も当初は、人の多さと喧噪ぶりに驚かれたかもしれません。
同じく前年の明治二十二年は、大日本帝国憲法が発布され、東海道本線が開通した年でもあります。日本の発展、大阪の繁栄。その活気のなかで、師は大阪暮らしを始められたのです。
一方、金光教関係では、国の宗教政策の枠内でとはいえ、すでに明治十八年に「神道金光教会」が認可され、教勢を拡大しつつありました。
二代金光様の時代であり、教団設立には、佐藤範雄、白神新一郎(二代)、近藤藤守の各師が尽力されました。そしてその白神先生は大阪教会、近藤先生は難波教会と、大阪での布教も大いに発展していました。状況はまさに、「金光大神賛仰詞」にあるとおり、「直信先覚先師ありて道はいや広がりぬ」だったのです。
しかしこのとき、師は信心にも金光教にも、まだまったく関心を示してはおられませんでした。それどころか信心している人をバカにし、ご利益があった、おかげを頂いたと言う人たちには、偶然の結果だとか、神経作用に過ぎないとか、理屈を並べておられたのです。このあと、瀕死の大病を経験されるまでは……
(9)絶対絶命になったとき、天地金乃神の名前がうかんできた
靱の塩干物問屋、貴田商店。そこに奉公された師は、持ち前の元気と活気で仕事に励まれました。奉公した以上、起きてから寝るまでの時間は主人のものなのだからと、自分の身のまわりのことなどは、人より早く起きて遅く寝て、それで作り出した時間に片づけておられたそうです。
ところが明治二十三年の六月頃から、身体の具合が悪くなりだしました。もちろん医者にはかかり、薬も飲まれましたが、病状は悪くなるばかり。二階の奉公人の部屋で寝ていて、下の階にまで熱臭さが漂うほどになり、年末には重体になって、遂に医者から見放されてしまわれました。
後年の教話によれば、『医者の方では「何でもよくなるように」と薬のかげんをしてくれたんでっしゃろが、結局「もうあかん」と言われた(中略)。「時間の問題や」と言われるくらいですから極度に衰弱しております。理屈いう気力もない。たのみの綱が切れたんですから、死を待つより仕方がない』という窮地に追い詰められたのです。
しかし師には、和歌山で苦労して暮らしているお母様がおられます。商売で成功して安心してもらい、引き取って孝行もしたいと思いつづけてきた身ですから、残される母親の悲しみを思えば、あきらめて死ぬわけにはいきません。しかもその悲しみは、先々までずっとつづくのです。それを思えば、何としても助からなければなりません。
このとき切羽詰まった師の心に、それまでは馬鹿にしていた「神頼み」の気持ちが生まれたのです。それについても師は、「事態がそこまで来ると人間は弱いものです」と回想しておられます。
それでは、なぜそれまでは、神頼みや信心を馬鹿にしてこられたのでしょう。実はそこには、「ただ単に信心が嫌いと言うんではない。信心するような神仏がないから嫌いなんだ」という、師一流の理屈があったからです。
たとえば、阿弥陀さんはインドの人だ。インドの人にどれだけ世話になった? あるいは、自分が神社の前で頭を下げるのは、神と祀られた人はとうに死んでるが、その功労は認めるからだ。信心はせんが、功労は敬して拝するのだ。
さらには、金光さんを信心したら商売繁盛させてもらえるって? そしたら金光教の先生は金持ちか。貧乏やないか。(そんな教えを信じてる人は)だまされてるんだ。商売繁盛は信心したからではなく、(本人が)努力したからだ……
まさに「ああ言えばこう言う」の理屈屋ぶりには、信心を勧める友人たちも手を焼いたことでしょう。けれどその理屈も、追い詰められたときには力を失い、「願い」のみが残ります。
とはいえ、どの神さまに願えば助けてもらえるのか。いろいろ考えてみても、どの神さまも本気で頼れる相手とは思えない。そのとき師の頭に、天地金乃神の名がうかんできたのです。
(10)「親のために」という一念が、神さまの思し召しと一致した
実は師は、それ以前に町なかで、その神名が書かれた提灯を見かけられたことはありました。しかし、通りすがりに見ただけの神名が、なぜそのときうかんできたのでしょう。
また、これは後日わかったことのようですが、奉公先の奥様が金光教の信者さんで、師の病気平癒を願ってくださっていたそうです。
無論それらの事実は、人間の解釈なら「偶然」の重なりということになるのでしょうが、ここはやはり、人生の道筋の要所に配された、神さまの意思による「必然」と見るべきなのでしょう。
ともあれ師は、天地金乃神は日本の古典に載ってる神さまではないけれど、「天地」があることは確かだし、人間がそのなかで生きているのも事実なのだから、この神さまになら頼れそうだと思われ、願う神はこの神と心を定められました。
そして、とにかく「親を悲しませないために」という一念で、「一心にくり返し、まき返し」祈念をつづけられたのです。
神さま。私はいま死ぬわけに行きません。親をおいて、親より先に死ぬことはできません。どうぞ、お助け下さい。子としての役前を果たすために、どうでも助けて下さい……
するとその翌日から、まるで芋を蒸しあげるような熱で汗と湯気が出だし、へその辺りからは膿のような汗も出て、臭くてたまらなかったそうですが、何とちょうど大晦日だった六日目には、すっかり良くなってしまわれました。
そして、人からは「無茶ですなあ」と言われながらも、「あれほどの大病を六日間で治して下さった神さま」ですから、「一を信じたら、二を信じる」という思いでお頼みして、散髪に行き風呂にも入られました。 明くる元旦を気持ちよく迎え、翌二日には商売の初売りにも出られたという、文字通り「起死回生」のおかげを頂かれのです。
それについて師は後年、「親先祖を大切にせよ。神はこれより以上の喜びはない」という神さまに、「親の為に助けてください」と祈ったのだから、「神さまの願いと、こちらの願いが一致したわけだ。思召しに叶うた願いだ」と、繰り返し語っておられます。そしてその核心は、そこに打算や混じりけがなく、本心から親を思って願われたということではないでしょうか。
第三章:奉公期(信心始め)
(11)どうやらホントの神さまらしい
師は瀕死の大病を、「親のために」助けてくださいと天地金乃神に願って、起死回生のおかげをいただかれました。理屈屋の師もその当座は、「やっぱり、神さまはござるんじゃ」と、ありがたく思い、大喜びされていたのです。
ところが日にちがたつにつれ、病気が見る見る治ったのは本当に神さまの力によってだったのかと、また理屈や疑いが出てきました。そして師はそれについて、三つの可能性を考えられました。
一番目は、神さまが実際に存在していて、自分の願いを聞き届けてくださり、治してくださったのだという判定。二番目は、あの病気がちょうど治る時期になっており、それと神さまに頼んだ時期とが、「偶然」重なっていたのだという解釈。そして三番目が、神さまに頼めば治してもらえるという思いが身体にも影響し、その神経作用(自己暗示)で治ったのではないかという仮説。
つまり、快癒は「おかげ」なのか、「偶然」なのか、そとれも「暗示」によってなのか。どれが本当なのだろうという疑問ですが、そんなことは、そう簡単に答を出せるものではないわけです。
ただしそうやって考えたのは、理屈のための理屈ではなく、師には「神さまがあれば信心して、頼みたいことが仰山あったから」でした。和歌山で苦労して暮らしている、母親の面倒を見させてもらいたい。世話になった親戚の人びとに、恩返しもさせてもらいたい。そのために商売で成功して、経済面の余裕を持たせてもらいたい……
だから、神さまのあるなしをはっきり知りたいし、あれば信心もさせてもらいたいのですが、教会へ行く決心はなかなかつきませんでした。
なぜなら、もし偶然に治ったのを神さまのおかげだなどと思ってたら、「おめでたいことになる」。また、教会へ行ったら、聞かされることは大抵「わかってる」。わかってて聞きに行くのは「あほらしい」。おまけに、今まで友達に勧められても信心に反対してたのに、その自分が神さまに参ったと、皆に言われるのも「業腹だ」。そんな具合に、内心の抵抗をつづけられたのです。
後年、師は「こんなこと考えて、ようバチがあたらなかったことですな」と自身で言っておられますが、当時は、意志も強いかわりに、なかなか我も強い人だったことがわかる逸話です。
(12)金は取らん。氏子を痛めては神は喜ばん。
とはいえ、結局は教会へ行くしかなく、師はその門前でもまだ迷われましたが、遂に決心してなかに入られました。しかしそこでも先生に、「仲人口のような教えはいりません。神さまがあるかないか、あるならどんな神さまか、それをはっきり聞かせてください」と要求されました。
そして、「ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。理屈はどないにでもつけられます」から、先生の話を、次から次へと理屈で壊していかれました。大阪弁で言うなら「負けてへんな」という対応ぶりに、先生も困られ、「あんたの考えは、だいぶ違ってるようですな」と言われたのです。
「そしたら、どこが、どう違ってますか」
「あんたは、自分が勝手に生まれて来て、勝手に食べて、勝手に大きうなって、勝手に働いて、勝手に生きてると思うてるのと違いますか」
そう言われて、師はぐっと詰まりました。なぜなら、それまでそんなことは考えたことがなく、理屈を言おうにも、言いようがなかったからです。
あんたは、自分というものを親が生んでくれたように思ってるが、親が勝手に生んだんじゃない、天地の徳を受けて生まれてきたんだ。
大きくなったのも天地が大きくしてくれたからで、働いて食べていくことにしても、天地がそうさせてくれなかったらどうにもならん。
誰でも、わしが生きてる、わしの生命と言うてるが、そんなものはない。天地の徳、つまり神さまのお働きによって生きてるのだ。生きさせてもらえてるのだ……
師は後年これらの問答について、「何でもないことで負けました」と述懐され、教話のなかでは、人間には自分のものなど一つもなく、すべて天地のものを使わせてもらってるのだから、「この世は仮の世ではない。借りの世だ」とも言っておられます。その意味で、このとき教会の先生は、「何でもないこと」から始めて、本質的な面にまで教えを進められたことになるのでしょう。
「私の大病がどうして拝んだだけで治ったのか、そこが頼りなくて疑いたくなりましたので」
「天地がつくって下さった体だ。天地に修繕を願ったら、治してくれるのはあたりまえで、治して頂けなんだら、それこそ不思議だ」
その説明に「なるほど!」と得心ができ、「金は取らん。氏子を痛めては神は喜ばん」という教えがあることにも心を引かれて、師は「どうやらホントの神さまらしい。一つ信心してみよう」と、心を決められたのです。明治二十四年、二十一歳の春頃のことでした。
(13)奉公にも信心にも、「徹底」する姿勢で取り組んだ
靱の塩干物問屋「貴田商店」に勤める師は、瀕死の大病を助けていただいた縁で信心を始め、立売堀の大阪教会へ通うようになられました。
同じ西区内で、いつでも参れる距離ですが、師の考えによれば、奉公する身にとって、起きてから寝るまでの時間はすべて主人のものだから、それを私用に使うことは許されません。そこで、他の奉公人より一時間早く起き、一時間遅く寝て、お参りの時間を作りだしておられたそうです。
普通の奉公人なら、そこまで厳格には考えないでしょうし、日中、店の用事で出かけた帰りなど、教会の前を通れば参ったりもするものです。しかし、いったん奉公をすると決めたら、「こうあるべきだ」という奉公人の姿勢に徹底する。ここにも師の、人とは違った理想の高さと、それを実行していく意志の強さがあらわれています。
また、信心を始めて間もない頃、偶然出会った郷里の人から、「ウチではえらい心配してるじゃないか」と教えられたことがありました。文字通り「逃げるように」、ほとんど無一文で出てきてしまったのですから、無理もないことです。
だからその人からは、「さしずめ金でも送れば、不自由はしてないと思うて、安心してくれるだろう」と言われたのですが、師には持ち合わせがありません。そこで、神さまにお繰り合わせを願われたところ、ただ一度願っただけなのに、三カ月ほどしたら思いがけない金が入ってきました。
前に瀕死の大病を治してもらえたのは、親を悲しませたくないからと祈ったため。今度のおかげも、親に安心してもらいたいのでと願ったから。そこで師は、「親大切」の思いで願えば、無理なことでもかなえてもらえると確信されたのです。
そしてその信心ぶりについては、「一を信じたら二を信じる」という行き方で猛進していかれた様子が、さまざまに伝えられています。
奉公先の奥様が信者さんだったので、店の二階に神さまが祀られている。その前でご祈念されるのですが、他の奉公人から、「安さん、また何やグチャグチャ言うとる。変なやつや」と笑われたり、根太板がゆれるほど「きついご祈念」をして、よく番頭さんに叱られたりもしたそうです。
(14)神さまとお話をさせてもらうには、 「まず心を定める」ことが第一だ。
その結果、師は信心開始から十一カ月めという早さで、神さまからものを教えていただけだし、その三カ月後には、お話もさせてもらえるようになられました。後年、師自身が、「神さまから、ものを言うてもらうようになるのには、なかなか、五年や十年ではむつかしい」と言っておられるように、これは異例中の異例という早さです。
そしてそのわけについては、これも後年、「どうしたら、そうなれますか」という信者さんの問いに、師はこうこたえておられます。
「まず心を定めるねん。それが一番大事。決心とでも言いましょうかね。お互いの行く道を定めて、なんぼ難儀であろうと、どんだけ難しかろうと、この道を踏み外してはならんという信念持ったらそうなる」
教えを信じるという点でも、まるまる信じ切られ、「好きなものが薬」と聞かされて、カシワ(鶏肉)を食べて脚気を三日で治してもらったとか、しもやけの悪い血を大小便に取ってくださいと願って、一日でかなえてもらえたなど、その信じ方の強固さがわかる話が残っています。
一方並行して、師は奉公先の繁盛も願いつづけられました。しかし、主人が商売に身を入れないため、次第に金繰りも悪くなってくる。その間、友人から「あんなとこに居ったら一生飼い殺しにされるぞ」と注意され、早く独立して自分で商売したらどうかとも言われました。
けれども師は、「ハリボテ(なかみのない人のたとえ)でもええ。主人は主人だ。私の気にいらん顔をしておっても、私の主人だ」と思われ、水をあびながら祈ったり、徹夜で願いつづけたり、寒中に裸足で教会へ参ったりされました。
「ただもう、主家の立ち行くよう、主人に道のわかってもらうよう」、それが奉公人の勤めだと思って奮励され、「主人を生かし、主家を富ましたい」「飼い殺しにされるなら、されてみよう」と、奉公に徹しつづけられたのです。
ところが肝心の主人は、少し金ができると、堂島の米相場(米の価格の取引市場)につぎ込んで無くしてしまう。あるいは、お茶屋(貸し座敷)へ行って、飲み食いの散財をするという始末。
当時の師は店の集金係もしておられたので、走りまわってようやくもらってきた金を、そのまま米相場やお茶屋へ持って行かれてしまうという、そんな場面もあったことでしょう。
後に、ご自身で「運命の悪い者はしようのないもので」と言っておられるように、和歌浦の「河清」時代に次いで、またもや金の苦労と商売の苦労を、ずっしり背負わされておられたのです。
(15)でたらめな主人にも奉公人として、商売の再興をうながした。
商売に身を入れず、少し金が入ると相場や遊興に使ってしまう。そんな主人であったため、師はお茶屋(貸座敷)へ行ったまま帰ってこない彼を、連れ戻しに出かけたりもされました。しかし、そんな状態で店が立ち行くはずがなく、師が奉公して三年目の明治二十七年(1894)、とうとう貴田商店は倒産してしまいました。
おまけに、主人は債権者に委任状を渡し、自分は身を隠して一カ月ほど帰ってこなかったというのですから、ひどい話です。他の奉公人はすでに辞めたり逃げたりし、上の番頭は債権者側についたため、後始末は師が一人でされたのです。
このとき、本来なら家財道具一式も持って行かれるところですが、師は債権者たちに、主人の家族が一応の暮らしができるよう、それを自分にくれないかと頼まれました。そしてそのうちの二人から、「あんたがうちの店で働いてくれるなら、道具は残してやろう」と言われました。
そこで師は、両方に承諾の返事をして一応の所帯道具をもらい、主人の家族は小さな借家に住めるようにされました。だからそのあと、「さあ。うちの店へ来てくれ」「いや。うちの店へと約束済みだ」と、二人が言い争う場面もあったのですが、結局どちらへも行かずにすんだのでした。
また、別の店からは「娘の養子になって跡継ぎに」と願われたり、働き者だけに引く手はあまたでした。しかし師はそれらをすべて断り、後日帰ってきた主人に、再起をうながされました。
倒産後の後始末まですませたのですから、普通なら、その先は自分の将来だけを考えても、誰からも文句は出ないはずです。けれども、主人の商売再興を第一に考える師は、「もう一度立ち上がってほしい。私は奉公人として、どこまでも尽くすから」と、力づけられたのです。
しかし主人にその気力はなく、とどのつまり、二人はそれぞれの道を歩むことになりました。そこで師は、その後の身の振り方について、ご本部に参拝して三代金光様にお伺いをされたのです。
第四章:小売り行商期
(16)小売り商売を決心したのは、天地のお言葉には背けないと思ったからだった
三代金光様は、その前年(明治二十六年)末に二代様の跡を継がれたばかりで、二十四歳の師がお伺いをされたときには、まだ十五歳になるかならずでした。しかし、師がのちに教話のなかで言っておられるように、どんな問題にも「はきはきとものを言われ」、このときには「小売りをさせてもらいなさい」とおっしゃいました。
ところが師は問屋畑で育ち、手紙一本で荷を送ってくれる得意先も、何軒もあるという身です。また後年のご自身の述懐によれば、その当時は、「気位が高い、我が強い」性格だったので、その時代の業界風潮もあってでしょうが、小売り商売というものを低く見ておられました。
そのため、「そんなことができるか」と思い、「小売りしようにも、資本がございません」と、言葉を返されたのですが、「おかげを頂けば、資本金はなくてもよろしい」と、だめ押しのお言葉が下がったのでした。
だからそのあと二週間余り、師は腹を立て、迷い、あれこれ考えつづけられました。
人をバカにしてる。小売りしてるなどと、郷里へ聞こえても恥ずかしい。元の取引仲間からも、甲斐性がないように思われる。とはいえ、金光様のお言葉は天地のお言葉だ。そのお言葉に背くと、天地に背くことになる。どうしたものだろう。お伺いなど、するもんじゃないな……
そして遂に、「死ぬよりもつらいこと」だが、天地のお言葉に従おうと決められたのです。
そしてその小売り行商の初日、貸し売りしてもらったスルメを篭に入れ、師は「面でもかぶらんと歩けん」ような恥ずかしさを感じつつ、朝から町の家々をまわられました。しかしまったく売れないので、切羽詰まった気持ちで神さまにお願いし、「花街へ行け」と教えていただかれたのです。
師は信心を始めてから一年弱という早さで、神さまから、ものを教えていただけるようになっておられました。ただし、それは神前で祈りに祈った上でのことで、道を歩きながらのお願いで教えてもらえたのは、これが初めてのことでした。
ところが新町で三百軒ほど、堀江で六十軒ばかり、昼食抜きでまわってもやはり売れません。
しかし師はこのとき、「まだ四時だ。日暮れまでに二時間ある。何でもその間に」と、自分ながら不思議なほど平静な心で、まわりつづけられました。途端にスルメがバタバタッと売れ出し、全部売れて帰宅したら五時だったそうです。
そして計算してみると、その日の利益が、当時にしても僅かな額である二十四銭三厘でした。そこでその御礼を神さまに申し上げたところ、「まあ、考えみよ」とのご指示がありました。
それに従って考えていると、自分はその僅かな儲けを得るために、合計七百回余りも頭を下げて挨拶したことなどが思い起こされました。
行商第一日目のこの経験で、師は問屋商売ではわからなかった金儲けの大変さとともに、信心によって、いつの間にかうろたえない心にしていただけていたこと、行くところまで行けばおかげをこうむれることなどを、悟られていたのです。
(17)気兼ねなく恩返しをさせもらいたい。結婚相手も、その思いで決められた。
三代金光様のお言葉に従い、師は塩干物の小売り行商を始められました。翌明治二十八年の年末には、二十五歳で結婚もされました。それまでに、友人から良い相手を世話しようと言われたり、商売の関係者から婿養子として店の跡継ぎにと願われたり、話はいくつもあったそうです。
しかし師には和歌山に、ご自身のお母様とともに、恩返しをすべき親戚として、先代主人の奥様と先々代主人の老夫婦がおられます。
その三人の世話を、家内に気兼ねする必要なく、心置きなくさせてもらいたい……。その考えによって師は、三代金光様におうかがいもして、先代主人の長女を配偶者に選ばれました。和歌浦時代に一つ屋根の下で暮らした、ひで様です。
こうして、師は信心を進めつつ商売に励み、奥様もその手助けをされる日々が始まったのですが、ここで時間をその三十一年後に移し、後年の師の感慨をお読みいただきましょう。
「湯川安太郎信話 第十六集」巻頭、五十六歳になっておられた師の、「ある日の述懐」からの抜粋。会話の相手は、商売人時代も教会を持ってからも、苦労をともにしてこられた奥様です。
〈なあ、有り難い、結構やなあ、私は夢みてるのやないかと思うてる。こんな大きな教会になって、今、みんなからはやかましいに言われて、夢やないかなあ。こんな事になるとは夢にも思わなんだ。それでも、私は弓張提灯を持って、朝から晩まで商売していたころから考えたら、本当に夢のように思うてる。
始め布教した時には、家賃が九円で、あの年の暑かったこと。それから思うと、こないなろうとは自分も思わなんだし、誰も思わなんだやろな。
「あんたに、一ぺん尋ねてみたかったんやが、どないに思う」
「……」
「なあ、夢やろ」
「ほんまに夢だんな」
「それでも、私はまだ前の事、一寸も忘れてへんのやで。弓張提灯時代の事を。折りに、それを夢に見る事さえある。忘れへんのやで」
皆、どない思うてるやろな。知っている人は「えらい事になった」と思うてるやろな。ほんとうに夢やな。これを知らなんだら罰が当たる。子供にもわからしておかにゃならん。まあ、この御恩報じに、本当の金光教、純粋の金光教を伝えたい。それが、せめてもの、御恩報じに思うている。
『死んだと思うて欲を放して天地金乃神を助けてくれ』と神さまがおたのみになった道や。その思し召しに添うて、やらしてもらいたい。
欲があったらいかんねん。いささかでも。死んだと思うねん。死んだ者に、欲も名も何んにもないやないか。それでないと事を為せへんねんで。
本当の金光教が衰える、亡びるという事は絶対にない。これは神さまの立てなした道やから。どうぞ、そのお道をふみはずさんようになあ〉
(18)「あんな良いお母さんはないで」と、師は後年、賞賛の言葉をもらされた
弓張提灯を持って朝から晩まで商売していた、その時代のことを、自分は少しも忘れてないし、ときには夢に見ることもある……
この回想には、しみじみとした「情」がこもっているように感じられ、大きな荷を担いで、後年には荷車を引いてまわりつつ、師が何を、どんなことを考えておられたのかと、思わされます。
また、これは大正十五年十一月の述懐ですから、教会は現在の会堂の、ひとつ前の時代です。
その、「こんな大きな教会」がさらに大きくなり、これはちゃんと記録されていることですが、参拝者が一日一万人にもなっていきました。
そこに至る道筋には、師の「人間わざとは思えない」勉励があったのはもちろんですが、それを支えた奥様の、内助の功の大きさも様々に伝えられているのです。
ですから師は晩年、ご子息(二代大先生)に、「あんな良いお母さんはないで。どんな無理を言うても、はいと言うだけや」と言われ、「お母さんは、女には珍しく腹の太い人だ」とも言っておられます。そして最晩年には奥様に、「よう辛抱したな。わしより一日先に死にや」と、最大級の感謝とねぎらいの言葉もかけておられるのです。
けれども、時間をふたたび明治二十八年にもどせば……。師は教会を持つことなど、まだ夢にも思っていなかった小売り行商人であり、結婚直後から「あれをせい。これをせい」と、奥様にも商売の下準備を手伝わせておられました。
得意先のお茶屋さん(貸し座敷業)が、仕入れてそのまま客に出せるよう、前夜遅くまで、するめを細かく裂いて火であぶったり、同じくあぶった小さな干しカレイに醤油の薄味をつけたり……
結婚されたのが年末でしたので、商売人にとっては、かきいれどきの忙しさでした。
「嫁入りして来た早々から、慣れんことをさして、そして初めての正月を越さしてもろうたんや。お母さんもなかなか苦労したで」
晩年の師はこうも言っておられますが、その苦労は歳末だけではなく、ずっと続きました。
「夜もろくろく寝ない人と暮らすことが、一番つらかった」
奥様のこんな言葉が残っており、睡眠不足と過労のため、目が真っ赤に腫れ上がったこともあったということです。
(19)自分の身分に合うたようにする
信心に励み、それをすべての土台にして、生活と商売をしていく。結婚前も結婚してからも、師はその基本姿勢を守りつづけられました。
たとえば、塩干物の小売りを始めて半年ほどしてから家を借りられましたが、まだ結婚前ですから、所帯道具など何もありません。「片っ端から買うて行かにゃならん」のですが、「自分の身分に合わして」やっていくため、食器類などをしまっておく膳戸棚はお手製の物でした。
「これは何や」
「片栗箱を削ったんや」
手近の木箱を流用して友達に笑われましたが、「それを恥とも何とも思わない」「私の家ではそれが立派な膳戸棚だ」「買おうと思えば買えるが、そら順序ではない」と考えられ、本物を買われたのはその五年後でした。洗面器なども、小さなものを結婚後も使っておられたそうです。
分相応ということを心がけられたわけですが、その「分」は職業や収入以前の、神さまに対したときの自分という、そこに基準を置かれていたのでしょう。したがってそこに、見てくれが悪いとか、人に笑われたら恥ずかしいという気持ちなど、入る余地もなかったのだろうと思われます。
ですから後年、師は教えておられます。
「人さんが何を着、何をしようとも、人は人、我は我、自分の身分に合うたように。人が何と言おうと、人のことはほっときなさい。自分の身分に合うようにすることが尊い。それが本当のことだ。何でも神さまは教えてくだされます」
もちろん、「人は人、我は我」が間違った自尊心によるものだったら話になりませんし、「身分」が社会的なそれでないことも、言うまでもありません。どちらもやはり、神さまに対したときの自分という、そこに基準を置かれているのです。
また、師は商売についても実意丁寧を基本にし、買ってくれる人の利便を考えられました。
お茶屋さん(貸し座敷業)が、酒のあてに使うスルメや干し魚など、前の晩に切ったり、あぶったりして手を加え、そのまま客に出せるようにして売りに出られました。結婚後は奥様も夜なべで手伝いをされ、幼少期の二代大先生は、両親のその姿を見ながら育たれたのです。
そんなわけで後年、お下がりの干し鰈(かれい)を二代大先生が火鉢で上手にあぶられたとき、
「おまえ。こんなこと、どこで覚えた」
「小さい時分に、ちょっとまねをして、やってみたことがあるように思います」
「ああ、そうか。私はそういう苦労をしながら、信心の勉強をさせてもらい、商売と実意ということを考え、得意先をまわっては人情の機微ということを、わからせてもらうことができた」
と、親子で話し合ったこともあったそうです。
(20)三年くらいなら辛抱させてもらえる
一方、信心については、商売を始めてまもなく、夏の盛りに家々をまわってもまわっても、まったく売れないことがありました。
腹立ちまぎれに、重い荷物を川に放り込んでやろうかと思ったほどで、汗みずくで帰宅してからも怒りを抑えかねておられたのですが、そのときふっと、「これは神さまのお試しではないか」という思いがうかびました。
途端にがらりと気持ちが変わり、お試しなら怒っている場合ではない、良い修行をさせていただいたのだからと、神前でお礼を申されました。
そしてその修行も、「三年以上となると荷が勝ちすぎるが、三年くらいなら辛抱させてもらえる」と、翌日からは勇んでまわられたそうです。
結局、そのお試しは数日で合格させてもらえ、品物がまた売れるようになったのですが、それにしても、この「三年くらいなら」という腹の据え方、据わり方は尋常ではありません。
三年間何も売れなくても、その間まったく収入がなくても、毎日神さまに修行のお礼を申し上げていく。その覚悟ができたのは、すでに師が「ままよ」の心を得ておられたからでしょうか。
そういった日々、師は教会に日参しながら、信心の勉強と研究にも努められました。
一例をあげれば、声に出してご祈念している人の横に座って、お願いの数をかぞえてみると、長く通っている人ほどそれが多くて、ご祈念の時間も長くなっていました。古い信者さんなど、あれこれ三十五件か六件にもなっています。
信心が進めば欲というものが少なくなるはずで、そしたらお願いの数も減るだろうに、これは逆ではないか。間違っているのではないか。
そう思った師は先生に申し立てられ、そうではないということを教えてもらわれました。
生まれたての赤ん坊の欲といえば母のおちちを吸いたいということだけだが、大きくなるに従って、あれも欲しい、これも必要、こんな願いもかなえてもらいたいと、欲が増えていくでしょう。信心もそれと同じことで、進めば進むほど、願いも増えていくのが本当なのです……
そうやってひとつひとつ、「なるほど!」という、理解と得心を積み重ねていかれたのです。
(21)商売も実意丁寧。「筋の通った」偏屈で、得意先を心服させていた
小魚をあぶったり、食べやすいように干物に手を加えたり、翌日の商売の用意をするため、寝るのが大体夜中の三時で、朝の八時過ぎには小売り商いに出る。師はそんな張りつめた時間の使い方で、得意先まわりをつづけられました。
以前、第十六回で紹介したように、商売初日には貸し売りしてもらったスルメを、知り合いからもらった篭に入れて出られました。しかしそれが、これも第二十回で紹介したとおり、品物がまったく売れなくなるという「ご試験」「お試し」のときには、肩に担ぐ重たい荷になっていました。
そして、さらに得意先が増えてからは、荷車を引いてまわられるようになったのですが、これは品物の良さや使いやすさとともに、正直で誠実な姿勢が信用された、その証拠となる変化でしょう。
またその過程では、後年教話で「ほんまにおもしろい取り引きでした」と、お話されているようなこともありました。
訪問先の一軒、新町のお茶屋(貸し座敷業)の主人が、当初は品物を見てもくれず、「うちは決まった仕入れ先がある」「もう来ないでくれ」などと、けんもほろろに玄関払いをする。それに対して師は、「買う買わないは、そちらのご自由です。しかし私はこうやって、毎日うかがうのが仕事ですから」と、顔を出しつづけられました。
すると、そのうち品物は見てくれだしたのですが、必ず五銭値切ってくる。一方師は師で、「品物は吟味しており、掛け値もしてませんから」と応じず、「また、お願いします」と店を出る。
延々とそれを繰り返し、その家の仲居さんが、「主人は値切るに決まってるんだから、あなたも五銭高めに言っておいて、それで値引きすればどうですか」と、助言してくれたほどでした。しかし、やはりそうはしなかったので、遂に相手は「五銭まけとけ」を「二銭まけとけ」とまで譲歩したけれど、それでも承諾されませんでした。
とどのつまり、大方三十回目に、「わしも偏屈で通ってるが、あんたの偏屈には負けた」と言い値で買ってくれて、以後は上得意になり、他の得意先も紹介してくれたというお話です。
そしてこの主人は、師が教会を持たれてからは、熱心な信者さんになったとのこと。正直と誠実が土台になった、いわば「筋の通った」偏屈が、相手の心に何かを感じさせたのでしょう。
(22)これもまた実地に試して、「お参りは銭儲けになる」と得心された
また信心についても、師は「私は物事にいきあたったら、必ず自分のものにする」という姿勢で、修行と勉強に励まれました。
たとえば、教会の先生はしきりに日参を勧められるのですが、億劫なこともあるし、なぜ日参しなければならないのか、理屈家だった師には、当初は合点がいきませんでした。そこで、日参と商売との関係を、「実験的にというと恐れ多いが」という思いで、確認してみられました。
日参する月としない月を一カ月単位で繰り返し、それぞれの月の売り上げを点検していく。すると日参した月には商売も好調で、しない月には売り上げの減っていることが、はっきりとわかりました。一カ月単位ばかりではなく、十日単位でやってみても同じことでした。
師はその結果、なぜそうなるのか理屈で説明はできないけれど、日参しないときには「心の隙」といったものが生まれ、それが商売にも現れるからだろうと思われました。そして、「これなら、お参りは銭儲けになるなあ」と得心されたのです。
ですからこの体験をもとに、後に師は信者さんに、「みんなも、お参りは銭儲けやと思って参らせてもらいなさい」と言っておられます。もちろん、信心の真の目的や目標は「商売繁盛」だけではありませんが、そこから入って進んでいくという意味で、思い方の工夫を教えられたのです。
その間、家庭では明治二十九年に初めての子供が生まれていました。しかし、三代金光様から「和賀之助」と名付けていただいたこの長男さんは、一歳の誕生日を迎えることなく、病気で亡くなってしまいました。
師はその前に、誰かと子供を引っ張り合って向こうに取られるという夢を見ておられたので、「あとから考えて、あれがお気付けであったと気が付きましたが遅かった」のでした。
そしてそれ以降、師は子供を五人、教会を持たれてからは修行生を十七人亡くされることになります。生い立ちや、その過程で味わわされた経済面での苦難と同じく、これもまた「すさまじい」経験をさせられることになるのです。
明治三十一年、後に銀座教会の初代大先生、湯川誠一師と結婚される、長女ツヤさま誕生。明治三十三年、玉水教会二代大先生になられる次男、茂師誕生。四人家族の年月が流れていきます。
(23)試しに三年間お供えをせず、「研究的態度」で、教えの確認をされていた。
「私の心は、よく決まる性分なのです。人はこうあるべきもの、こう進んで行くべきものなり。そう思って腹が決まったら、もう動かない。これは自信をもって申し上げられます」
その言葉どおり、師は商売も信心も「決めた腹」を動かさず、熱心に実践していかれました。
特に信心については、「私の踏んでいこうとする道と、この道とは大きな違いがない」と思われました。それは、親先祖を大切にとか、何事にも報恩感謝の気持ちをもってとか、ご自身の思いと基本になる教えとが、一致していたからでしょう。
しかし、教会の先生が日々教えておられることが、本当に事実なのかどうか。信心始めの時代にはそこがわからないので、「研究的態度で」実際の現れを調べつづけられたのです。
たとえば、「お供えとおかげはつきものではない」という教えがあり、これは、「お供えしなければおかげがいただけない、というわけではない。また逆に、お供えしたからといって、必ずおかげがいただけるとも決まっていない」ということです。けれども師は信心する前は、宗教家は信者を騙して金を取るものだと思っておられましたから、どうしてもそこに疑いが残ります。
そこで、その教えが本当か否かを確認するため、「どうじゃ。これでおかげくれるかどうか」という気持ちで三年間、普段ばかりか大きなお祭りのときでさえ、一切お供えをされませんでした。それによって、おかげの有る無しと「先生の顔色を」見られ、本当の教えであると得心されたのです。
信心を途中で止めたらどうなるか。これなど、止めた信者さん、止めずにつづけている信者さんの様子を、十五年調べつづけられたそうです。
そしてその結果、神さまは人を本当の意味で救うためには、信心の度合いによって、おかげの手加減をなさることもあると確認されました。
ですから後年、師は教話のなかで、それを「ぼた餅のおかげ、唐辛子のおかげ」というたとえで、わかりやすく説明しておられます。
ヒリヒリする唐辛子を最初から与えたら、それも実はおかげなのだが、まだそこまではわかってない信者さんが、信心をやめてしまう恐れがある。だから、まず甘くておいしいぼた餅を与えておいて、そのあと唐辛子にされたりなさる……
つまり、願っても願ってもおかげがないという、その唐辛子のときこそ、おわびとあらたまりでめぐりを取っていただく時期なのに、そこで止めてしまったら元も子もなくなるという、そんな事例を、信者時代から数多く確認されたのです。
とはいえ止めずにつづけても、そんなときには「フラフラになりまっせ」と、師は信心継続の厳しさを告げてもおられます。
(24)生活のなかでの経験も信心にあてはめ、思いを深める糧(かて)にされていた。
また、その研究的態度は自身の生活や周囲の出来事にも及び、さまざまな経験を信心に当てはめて、取るべきものを取っていかれました。
たとえば、米のなかに脱穀する前の籾(もみ)が一粒まじっていたので、古バケツに泥を入れて育てられたことがありました。するとそれが三十九本の穂に育ち、一本の穂に大方百粒の実がなって、一粒の籾が四千粒近い米になりました。
昔から仏教の方では、「一粒万倍」という言葉が伝えられており、これは、良いことをしても悪いことをしても、それが拡大して自分に返ってくることのたとえに使われてきました。
そして師はそれについても、「宗教家はあんなことを言って金を取るのだろう」と悪く解釈しておられたそうですが、この経験によって、「一粒万倍」という言葉が本当だと知られました。
そこから、人生においても「悪い種をまいていては助からない」、「おかしい種をまいたら、とてもやりきれるものじゃない」と、人がめぐりを増やすことについて、思いを深められたのです。
明治時代の中頃、大阪湾で築港工事が始まり、その様子を何度も見に行かれたこともあります。ところが、当時のことですから工事の進行が遅く、三年たとうが五年たとうが、大きな石を海に沈めているばかりで、何の変化もありません。
けれども、そうやって水面下で積まれつづけた石が次第に高くなり、とうとう九年目に海面に達して、堤防になりだしたそうです。
この事実からも師は、信心にも土台造りが必要だが、それには時間がかかることを悟られました。そして後年の教話で、「罪が深かったら深いだけ、よっぽどしっかり入れにゃならん。それは捨て石だ。捨て石は大事だ」と言っておられます。
通っておられた教会で、お祭りのときなどの下足番を、六年間つづけられたお話もあります。そんな役を敬遠する信者さんもおり、「羽織を着て、えらそうにやってます」が、それは欲のない人のすることで、本当の欲があれば、人の嫌がる役を引き受けた方が「得」にも「徳」にもなる……
だからもっとつづけさせてほしかったのですが、「六年しかさせてくれませんでした」とのことで、このエピソードによって、師の信心の向上ぶりが、信者仲間からも教会からも、認められだしていたことがわかります。
ただし、それが商売に本当に織り込まれるのはまだ少し先のことで、掛け売りを始めて金繰りに困り、頼母子(会員制の互助金融)に入ってなお苦しむという、そんな時代でもあったのですが。
第五章:「商売・信心」苦闘期
(25)商売で功を急いで、借金地獄におちいったこともあった。
師は小売りを始めた当初には、現金売りを通されました。お客さんから現金で払ってもらって、仕入れ先にも現金で支払う。月末や翌月に払ってもらう「貸し売り」なら、お客さんも買いやすいのですが、その間の支払いにあてる資金に余裕がないため、そうせざるをえなかったのです。
しかし得意先が増えだすと、「功を急ぐあまり、えらい失敗を」してしまわれました。「商売を一層手広くし、売り上げを増やそうという」気になって、貸し売りを始められたのです。するとその効果はてきめんで、半年ほどで千軒ばかりの得意先ができました。けれどもその分、支払いの額も格段に増え、金繰りに困られだしたのです。
つまり、問屋への支払い額が増えたのに、得意先からの集金は、そう判で押したようには進まないという、当座の金の融通問題です。
そこで師は、頼母子(複数者の掛け金方式よる互助金融)に入って急場をしのがれたのですが、今度は月々、その掛け金の支払いに追われるようになられました。それを何とかしようと、頼母子にもう一口入る。すると当然、掛け金の支払いが増えて、また苦しむことになる。
その悪循環で、四口入って立ち往生という有様で、「その苦しさというたら、とても切ない。息つく間もないほど苦しい」という思いを二年半ほど経験された後、誤りを悟られたのです。
これは、信心する人のすることじゃない。神さま一心に拝んでおったら迷うことはないのに、自分は頼母子を頼って、いわば頼母子を拝んでいたから、こんなことになったのだ。ここはやはり、神さまに頼むより仕方がない……
重々おわびを申し上げ、頼母子の支払いは「神さまに責任を持っていただいて」、ようやく窮地を脱するという経験をされたのです。具体的には、願いつづけて四カ月後からは、頼母子の掛け金だけは払えるようになったということです。
(26)何でも「めぐり」と言われる神さまに、我慢しきれず談判もした。
また商売については、神さまから厳しい指摘を受けられ、これも苦しみながら、ひとつひとつ改めていかれた時期もありました。
というのが、師は子供のころから商売を習い覚え、十三、十四という年齢で「やり手」だと言われるほどにもなっておられましたが、それは鮮魚問屋でしたから、商品の量も金額も大きくて、いわば「おおまかな」商売ぶりだったのでしょう。
ところが小売りの立場になってみると、それでは駄目だと、神さまから次々に告げられました。
商売についての「勉強が足りない」。その姿勢や思いについての「真実が足りない」。物や商品その他何でもの「始末が悪い」。金の使い方に考慮が足りず「経済」が悪い……
すなわち、努力すること、真実をもって働くこと、物の始末と経済を考えること。それらが揃って初めて、神さまから「商売勉強」ということに合格点をつけてもらわれたのですが、そうなるまでには六年かかったということです。
それにしても、頼母子に入ったのは浅知恵だったとしても、真面目に熱心に働くことについてなら、師は誰にも引けは取っておられなかったはずです。なのにこれだけ神さまが厳しかったのは、やはり師の将来を見通して、後日のため、後年のためにと、鍛えておられたのでしょうか。
一方その間、家庭生活においては、子供が次々に亡くなるという苦難がつづきました。そのたびに師は神さまから、「先祖の罪のお取り払い」「めぐりのお取り払い」であると教えられていたのですが、それには納得ができませんでした。
なぜなら、子供を亡くしたときばかりではなく、商売で損をしたときも、それ以外で何かあったときも、神さまは「めぐりの取り払い」だと言われるからです。これだけ苦難がつづいたのだから、めぐりも大分帳消しになっただろうに、まだ神さまは、「先祖の罪によってそうなるのだから、しばらく辛抱せよ。こうしないことには、その方の身が浮かばれないのだから」とおっしゃる。
そこであるとき、どうにもこうにもたまらなくなって、師は神さまに談判されました。
私はもう聞きあきました。もう信じられない。そんなことを言ってごまかさずに、「神にはおかげをやる力がない」と言ってください。そう言っていただけたら、私もそのつもりで信心いたします。言ってください。神には力がないと……
後年、師は「こんなこと言うて、ようこの口が裂けなんだことですな」と述懐しておられますが、その必死の、息詰まるような、子供を亡くして涙をこらえつつだったかもしれない追及に対しては、「神に二言はない」という言葉が返ってくるばかりでした。そこで師は、「それなら私の先祖がどんな罪を犯したのか、せめてそれを教えてください」と迫られたのです。
そしてその結果、四代前が大きな罪を犯したので、そのめぐりが現れているのだということを、教えてもらわれました。しかもそれは肉体上の先祖ではなく、霊としての四代前の師自身が犯した罪であり、信心してなければ二十代は苦難がつづくとも、告げられていたのです。
この壮烈な体験から三年後、師は(次回に紹介するお話によって)「なるほど、めぐりというものはある」と、得心されたそうですが……
(27)犬にさえ「めぐり」がある。まして、 人間なら、なお一層のそれが
前回では、師が大きな「めぐり」を負っているという事実を、神さまから聞かされたことを紹介しました。また神さまの教えによれば、人それぞれの肉体上の親先祖と、霊としての代々の自分自身、そのどちらもがめぐりを作ってきているとのことです。そして師はあるとき、子犬によってその実際の現れを見せられました。
師がたまたま、かわいらしい子犬を知り合いからもらい、それを欲しがった友達に譲ったところ、しばらくしてから人力車にひかれて、右の前足を怪我しました。そこで、友達からそれを聞いた師が快癒を願われると、神さまは、「それは、めぐりだ」とおっしゃいました。
また、飼い主の奥さんは信心の進んだ人でしたので、同じく快癒を願うと、「あの犬の親の親が人によく噛みついたので、その罪を持って生まれてきている。時を待て。おかげをやる」と、神さまから教えてもらわれたそうです。
ところがその犬は、治るどころか、そのうち怪我をした右の前足が、曲がりだしました。そして次には、何ともないはずの左前足も曲がり、さらにはしっぽまでひかれてしまいました。
「かわいそうだから、治してやってください」と願っているのに、逆に一層ひどい様子になったため、その痛々しい姿に、師も友達夫婦もどうなることかと思っていました。すると、そのうち右前足が元にもどり、次いで左前足もまっすぐになり、最後にしっぽも治って元気になりました。
最初にひかれてから全部治るまでに、何カ月もかかったのですが、これによって師は、確かにめぐりというものはあるし、その取り払いには時間がかかるということを、得心されたのです。
つまり、その子犬の親の親が人によく噛みついてめぐりを作ったので、それが二代あとの子孫に現れて、二度もひかれたり、足が曲がったりすることになった。その「難儀」によって、先祖の罪を取り払ってもらったわけで、それが、願いとは逆になおさらひどくなったり、元気になるまでに時間がかかった、理由だったのです。
そして、犬の先祖のそんな悪癖でさえ罪になって残ったのですから、勝手気ままをつづける人間は、肉体上の先祖も、霊としての自分自身も、代々どれほどのめぐりを積んできたことか。
さらには、犬のことですから何カ月かで願いの結果が出ましたが、人間のそれを取り払ってもらい、願いをかなえていただくためには、どれだけの難儀と時間を経なければならないのか。そこを考えると、恐くもなり、「信心辛抱」という教えに、確かな根拠のあることがわかります。
(28)どうしても、何としても、十二年間、そんな信心にはならなかった
一方、時間がかかることについては、師は「親に喜んでもらい、安心してもらう」という、ご自身の願いにおいても、それを経験されました。
というのは、師は最初は、そのためには身体丈夫で商売が繁盛し、家庭も円満にいくようにと、自分だけのこととして祈念しておられたのです。
しかしそのうち、兄弟に一人でも不幸な者がいたら、やはり親は心配するに違いないと気づかれました。そこでそのことも併せてお願いされるよになり、その範囲が、親の安心のためには親族一同が幸せでなければと、さらに広がりました。
けれども、それだけ増えた願いは「なかなか三年や五年じゃいかん。八年かかりました」とのことでしたが、そのかわり、かなえられて親に安心してもらえたときには、ご自身も「安心と喜びのなかへ」入ってしまっておられたそうです。
ですから師は後年のお話のなかで、自分のことだけではなく、妻子、親兄弟、親類のことなど、「行き届いたお願いは愛情の働きです。何もかもお願いしたからと言うて十分間もかからんのですから、神さまにお頼み申すことを忘れんよう」、すべてを願うようにと教えておられます。
ただし、こういった逸話に接すると、師が強い信念で一本道を進まれたように感じられるかもしれませんが、実はそうではありませんでした。
これまでの連載で紹介させてもらったとおり、師は商売面では借金を背負ってしまわれ、家庭においては、子供を何人も亡くしておられます。
だから信心を始めて九年目か十年目には、「フラフラになった」ことがあり、「君、信心してるのか。心配してるのか」と聞かれたら、「信心やめて、心配してる」とこたえなければならないような、そんな状態にもなられたのです。
「心配する心で信心せよ」という教えについても、十二年間骨を折ったけれど、「どうしても、何としても」、そんな信心にはなりませんでした。
それだけに、この「どうしても、何としても」という言葉を重ねた述懐は、自分を叱咤激励して努力をつづけられた師でさえできなかったという、教えの難しさを示しているようにも感じられます。とはいえ、それは本当は、「わかってみれば、何でもないこと」なのだそうですが……
ともあれ、師はそのときには、「これはまだ途中や。途中で頭ひねっても仕方がない。行くところまで行こう」と思われました。
「もう、こう解釈するより解釈の仕方がなかった」そうで、この言葉にも、考えて考えて努力しぬいたその果てにという、七転八倒の体験が含まれているのでしょう。
(29)自分は努力してきたのに、なぜ、こんな赤字を背負うことになったのか?
掛け売りをすると、得意先は増えるが、集金が思うようには進まない。そこで月々の支払いのため、師が頼母子(民間の互助金融)に入って失敗されたという話は、前に紹介しました。
そしてこのとき師は、自分は本音本心では神さまに頼る心よりは、頼母子に頼る気持ちの方が強かった、つまり、「形としては神さまを拝んでても、実は頼母子を拝んでた」と気づかれ、お詫びと改まりで切り抜けられました。
しかしそれは神さまから、掛け金の支払日には、毎月それだけの現金が用意できるようにしていただけただけで、商売自体の赤字体質は、得意先が増えれば増えるほどひどくなります。
追い詰められた師は自宅のご神前に座り、神さまに訴えつつ、考え詰められました。
自分は真面目に奮闘してきたつもりなのに、その結果が大赤字とは、どういうことか。いったい誰が、何が、自分をこうまで苦しめているのか。
そこを厳しく追及された結果、それは他の誰でもない自分であり、自分が自分の「腕」を頼みにしてやってきた、その姿勢が根本原因だったのではないかと、気づかれたのです。
和歌浦の河清時代、また靱の貴田商店に奉公していたときも、師は周囲からは、商売上手の「やり手」だと評価されてきました。何事にも勉励努力する気質ですから実績もあがり、ご自身も「腕に覚え」の自負を持っておられたのでしょう。
だから、ご神前で考え詰めて、「自分の腕に頼ってきた」姿勢に気づかれたとき、師は合点がいかない気持ちで、こうも思われました。
自分の腕に頼ってきたこと。それがいまの窮状の原因だったようだとはいえ、商売人が腕をふるうのは当然のことではないか。それが駄目だというのなら、どうしろというのだろう……
するとその疑問に対して神さまが、「世間で天職と言うではないか」という一言をくださいました。
第六章:「商売・信心」開眼期
(30)そうだ。「神さまはご主人。自分は奉公人」なのだ!
ただしこの場合の天職とは、一般にいう適職のことではなく、どんな仕事も天の職、神さまが用意され、人に与えておられる職なのだという意味です。途端に師の思いが進んで広がりました。
とすると、人は皆、天の神さまの様々な仕事を、おのおのが分担させてもらっているのだ。なのに自分の腕を頼りにやってきたのは、神さまの商売を「させていただく」ではなく、それを横領して、自分の商売を自分が「してきた」ことになる。
つまり、「腕をふるう」ことが間違いだったというよりは、もっと根本、自分の商売は神さまの商売なのだということを考えず、これは自分の商売なのだからと思って自分の力でやってきた、その考え方が間違いだったのだ。
ということは、商売繁盛を必死にお願いもしてきたが、それも自分の都合のみを願った形だけのもので、真の願いにはなってなかったことになる。つきつめれば、そもそも自分の信心自体が、本当の信心にはなっていなかったのだ!
自分は熱心に信心してきたという、その思いも土台から崩され、ここに「改心」以上の「回心」、根本的な心の変革と覚醒が生まれたのです。
師はお詫びをされ、誓われ、願われました。
「神さま、何とも申し訳がございません。今日限り、私は(自分でするという)商売をやめ、私のこの腕をお供えさせていただきます」
「どうぞ、あなたが、私のこの腕をお使い下さいますよう、お願い申します」
「神さま。あなたは私のご主人です。どうぞ、この私をあなたの奉公人として、お気の召すままにお使いください」
それにしても、誠実に商売をし、熱心に信心をつづけて、とうに神さまとお話もさせてもらえていた師にして、ここまで苦しまれたという、その事実は何を示しているのでしょう。
人間というものが、それほどまでに「物事を自分の側から見てしまう」存在なのだということでしょうか。それとも、師の将来に対する神さまの思いゆえに、改心を超えた、劇的な回心への道筋が用意されていたということでしょうか。
何にせよ、師は覚醒されました。世の中の仕事はすべて神さまの仕事であり、それを人間一人ひとりが、分担させてもらっているのだ。だから、仕事を「する」ではなく、「させていただく」と捉え、その思いで働くのが本当なのだ……
明治三十四年、三十一歳のときのお話ですが、布教開始後の玉水教会で教えの基本になる、「神さまはご主人。自分は奉公人」という姿勢が、ここで定まりました。そしてそのとき、師は神さまに、「長い間ご心配をおかけいたしました」という、意味の深いお詫びもしておられます。
(31)とにかくもう、自分をゼロにして、親方(神さま)に奉公するんだ
前回は、商売の赤字拡大に長らく苦しまれた師が、遂に「神さまはご主人で、自分は奉公人」という境地に到達されたことを紹介しました。
布教開始後の玉水教会で、教えの基本になった姿勢ですが、それが具体的にはどうすることなのかを、師は次のように伝えておられます。
「もう、奉公人として、神さまをご主人に戴いて家に祀らせていただき、自分は奉公人??番頭か丁稚になって、自分をゼロにし、商売や仕事は、親方の商売、親方の仕事、世帯も親方の世帯、自分は親方に使うていただいておる。そして、これからも使うていただけるように、骨身惜しまず実直に働いて、そろばんを放って一心に、神さまにお頼りし、おすがりしていくんだ」
つまり、普通に考えれば仕事は自分の仕事なのですが、その「常識」を捨ててしまい、自分は親方(神さま)のところに奉公して、その仕事をさせていただいているのだと、思いを定めなさい。収入も生活も、すべてその思いを基礎にして考え、対処していきなさいということです。
そしてこの教えの前提には、ご自身が経験され、当時の信者さんたちもよく知っていた、商家への奉公の約束事や、そこの主人(経営者)と奉公人(従業員)との関係があります。
すなわち、昔の住み込みの奉公人は、主家のために一生懸命働くことを要求され、そのかわり衣食住と小遣い銭は主人から保証されていました。
まじめに働けば、丁稚(年少の見習い従業員)から、手代(一応の仕事を覚えた格上の従業員)、さらには番頭(管理職)へと昇進させてもらえ、独立もさせてもらえます。
反対に怠けたり、ずるいことをしたら怒られますし、それが目に余る場合にはクビにもなります。また、自分の勝手な判断で損をしたときは別ですが、主人の指示どおりにやって赤字が出ても、それは奉公人の責任ではなく、主人の責任です。
江戸時代以来、明治以降も、大阪は「商いの都」として栄えていましたから、こういった約束事は、当時は誰でも知っていることだったのです。
そして師は、主人と奉公人のこの関係を、神さまと人間の関係に「あてはめ」られたわけで、その思いを実行してみると、商売も生活も心配不要で、都合良く進むことを確認されました。
たとえば、さんざん苦しんできた商売の赤字体質も次第に好転し、そのうちお金が余るようになってきました。奉公人としての衣食住は親方が保証してくれるものだという「あてはめ」ですから、生活費一切はまわってくるお金のなかから出させてもらって、それでも余ったのです。
そこで、それを「月給」として頂戴され、貯金しておかれたのですが、それもまた神さまのお金を自分のものにしていることになり、「そこにまだ我が残っている」と気づかれました。
ですから、全額を神さまのお商売の営業資金に繰り入れ、その面でも「自分をゼロに」されたのです。
(32)奉公人になりきれば、神さまも、ちゃんと段取りしてくださる
一方、師はその当時からすでに、友人や知り合いから、生活や商売の相談を受けておられました。神さまから、誰それを助けてやってくれと頼まれたことも、何度もあります。
そこで、「神さまはご主人で、自分は奉公人」という境地に達してからは、それらの人びとにもその生き方を伝えられました。たとえば、大変な借金を背負ったお茶屋(貸し座敷業)のおかみさんには、こう言っておられます。
「もうこんなものは返そうとは思いなはんな。あんたにそんな気のきいた力はない。お詫びして神さまにお願いして、払っていただきなさい。私の至らんためにこういうことをいたしました。しかし私には払う力がございませんから、どうぞ払うていただけますようおかげ下さいと、こう願うねん。そして世帯も商売もすっかり神さまに返してしまって、自分は奉公人になったらいい」
その教えを守って努力した結果、おかみさんは三年で借金を返せたということです。
また、玉水教会を開設してからも、商売がうまく行かず、借金が増えて困っている信者さんには、必ずそのやり方を教えられました。
商売の世界における主人と奉公人。その関係のなかで、自分をゼロにすること。これを師は「あてはめ」を超えて、神さまと人間の関係そのものだと実感し、確信されていたからでしょう。
一例として、紙箱を製造販売していた信者さんのお話があります。この人は金繰りが悪くなり、材料を仕入れに行く紙問屋さん数軒に借金が増えたため、顔を出しにくくなってしまいました。
だから、肝心の仕事もできなくなったのですが、それに対して師は、紙箱屋の主人は自分だと思っているから、体裁が悪いとか、催促されたら困るとか、思うようになるのだと指摘されました。
ご主人は神さまで、自分は奉公人なんだから、仕入れに行くのは奉公人の役目ではないか。神さまに、「都合良く仕入れができますように」とお願いすれば心配ない。とにかく行ってきなさい。
そう言われて渋々出かけたところ、意外なことに、一番借金の多い問屋さんが、紙をまわしてくれました。それがきっかけになり、奉公人になったつもりで仕事に励んだ結果、金繰りが次第に良くなって、借金も返せたということです。
その間、こんなこともありました。まだ小遣い銭にも困っていた時期ですが、ついつい信心友達に借りに行ったところ、「ご主人(神さま)が借りてこいとおっしゃったのか。それとも、奉公人が勝手に借りに来たのか」と言われたのです。
そこで、自分の心得違いをおわびし、小遣い銭を授けてくださいと神さまにお願いしていたところ、突然入ってきた客が、売れ残ってほこりをかぶっていた紙箱を買ってくれて、それで当座の小遣い銭ができたという事実談です。
神さまはご主人で、自分は奉公人。この思いに徹すると、神さまの方も、ちゃんと段取りをつけてくださるということでしょう。
(33)時間も商売も忘れて、知り合いの相談に乗っておられた
前回は、師が遂に、「神さまはご主人。自分は奉公人」という境地になられたことを紹介しました。けれども、まだその回心には至ってない時代には、三代金光様に、金繰りの悪さについて相談されたこともありました。そして金光様から、
「この商売を継続しようと思ったら、商売一心になりなさい。追々におかげ蒙ります」
という、お言葉をいただかれました。
しかしその教えが、守ろうとしても守れません。困っている人を見ると放っておけず、行商の途中でも相談に乗ったり、神さまの教えを伝えたり、時間を忘れ、商売も忘れてしまうからでした。
信心友達が教会へ参る途中、どこかの家の表に師の商売の荷物が置いてある。
「ああ。またここで、お話してはるねんなあ」と思い、参り終えて帰ってくると、まだ荷物が置かれたままになっている。「またあんた、こんな事してなはる言うて、怒ったこともおます」という、回顧談が残っているほどです。
また、商売上の支払いができず追い詰められている知人を、助けたことも何度もありました。
そんな人が気の毒でならず、「自分の節期の払いのために都合してきた五十円の金を、ソックリ渡してしまい、肝心、自分の払いが出来なくなってしまった」りもしたそうです。
ただし、「そういう行いが人の信用を増すことになり、支払いが遅れたからとて、催促を受けたことはなかった」とのことですが、それにしても、通り一遍の同情や義侠心では、できないことだと思われます。
そして、それらについては師も後年、「三年間、非常に困った。丸三年間、それで苦しみました。よほど苦しかった」と言っておられます。もちろんこれは、人を助けることが苦しかったのではなく、商売一心になれなかったことがです。
(34)将来の希望としては、日本全国をまわって、信心のお手引きをと思っておられた
ただしその時代、師は自分が教会を持つことなど、夢にも思ってはおられませんでした。
「私、先生になるのはいやでした。商売しつつ片手間に助けていきゃ面白い。体も自由です。今になって、よう先生になったと思うておりますが、初めはいやでした」
こんな述懐が記録されており、その当時は、五十歳くらいまでは商売しながら信心を磨き、まとまったお金も作って、布教のお役に立たせていただきたいと、願っておられました。
「私はワラジを履いて金を首にかけて、日本中をまわろうと思うておりました。それが一番楽しいことのように思うていた」
そして、あの村に十日、この町に一カ月という具合に各地を巡り、「難儀しておる人を救い助けさして頂き、目にものみせては、それを最寄りの教会へお参りさすよう、信心のお手引きをさせて頂こう」と、それをご自身の将来像にしておられたのです。
土佐堀あたりにも布教所があれば、もっと多くの人の助かりにつながるだろう。そうも思い、それに適した場所に空き家を見つけて、ご自身が家賃を払って借りられたのも、この時代です。
しかしそれにしたところで、通っていた教会の先生に来ていただくためで、まさかその三年後、そこで自分が布教を始めることになるとは、思いもしておられなかったのです。
とはいえ冒頭で紹介したように、師は「商売一心」には、どうしてもなれませんでした。そしてさんざん苦しんだあげく、教祖様に、「私を商売一心にしてやろうと思われたら、難儀な人に引き合わさないでください」と訴えられました。
そんな人を見たら気の毒なと思い、一心が欠けます。だから、見せないようにしていただきたい。ただし、今度は見かけたら、追いかけます。三年間お詫びしましたが、もうお詫びもしません。
だから、困っている人に会わせないようにと、そう願っておきますが、「見かけたら追います。もう逃げません。進んで追いかけて行きますから、そのつもりで。一心になと二心になと、あなたにお任せいたします」
壮烈な思いが込められた訴えで、「人を思うこと人後に落ちず」という言葉が、すでに当時から実証されていたことがわかります。
けれども実は、そうやって商売一心になれないほど難儀な人に引き合わされたという、それが神さまの、「これでも人が助けたいか」という、ご試験だったのです。
回心ができた。空き家も借りた。試験はつづく。ご自身はまだ自覚しておられなかったのでしょうが、その後の展開を知る我々には、少しずつ、しかし確実に、布教開始時期が迫ってきていることのわかる、息詰まるような段階です。
(35)布教を進めるため、先生に来てもらおうと、土佐堀で小さな家を借りられた
前回で紹介したように、師はご自分が教会を持とうとは思っておられませんでした。しかし、ご自身の信心を進めることとともに、布教の進展ということも、常に考えておられました。
たとえば、「土佐堀あたりにも布教所がほしい」と思い、参っていた教会の先生に相談して、賛意を得られました。そこで明治三十五年か六年頃、一軒の空き家を見つけて、先生に確認されました。
「家を見つけてきましたが、隔日ぐらいに(お話をしに)来ていただけますか。せっかく借りても、来てもらえなければ仕方がないが」
「いや、毎晩行きます。毎晩行けにゃ、隔日にきっと行くから」
その言葉を受けて師は、家賃は自分と信心仲間が出させていただくと決められました。こうして土佐堀裏町(当時の町名)の小さな家を借りられたのですが、その場所は現在の玉水教会より北寄りで、土佐堀通りの少し南にあたる一画です。
昔のことですから連棟式の家屋で、二階建てとはいえ、頭のつかえそうな低い造り。下は二間で、狭い台所はあるものの、便所は外で共用でした。
また、師の思いとして、ある修行生にそこへ移ってきてもらい、将来、その人の教会として布教してもらえればとも、願っておられました。
「私が教会持つというような気分はひとつもない」「書生の行く場所をこしらえたつもり」で、そのため、その修行生の奥さんを留守番役に頼むなど、細かい配慮もしておられたのです。
ところが教会の先生は、最初の一週間は約束通り来てくださったのですが、何かご都合でもあったのか、足が遠のいてしまわれました。
代わりにお目当ての修行生が来て、こちらは二年近くつづいたものの、とどのつまり、「どうもうまくいかない。先の見込みがないので」と、もとの教会に帰ってしまうことになりました。
ですからそのあと、空き家同然の家に家賃を払うという時期が、一年ばかりつづくことにもなりました。そして結局、「夜分だけでも、湯川さんらが行ってくれたら」という教会の先生の意を受けて、師と信心仲間の一人と、二人がそこへ行って座ることになったのです。
(36)みきを忘れず、愚痴不足を言わず、とにかく信心に骨を折られた
そんなわけで、昼間は商売をしつつ、「夜分三時間ほど、からっぽの教会で八時頃から」お話をされていたのですが、信心の話をしだすと時間を忘れてしまう師のことですから、終わるのが十二時を過ぎる夜も多かったという熱心ぶりでした。
すると、始めてから二カ月ほどで八十人ほどの人が集まり、三カ月たったときには、百二、三十人が来るようになりました。驚異的と言える実績で、これは師にすでに、それだけの「徳」が備わっていた証拠なのでしょう。
実際それについては、信心を始めて十四年目に、「思うままのおかげ」をいただけるようになっておられたという、裏付けになる事実があります。
「私は二十歳で信心させていただいて、三十五のときに、(神さまから)思うままのおかげをやるというお言葉をいただいて……」
こんなお言葉が残っていますが、ただしそれから十カ月ほどは、思うままどころか、その反対反対の現れがつづいたそうです。
「その十カ月間の苦しかったこと。その苦しいなかにも、みき(ありがたき・恐れ多き・もったいなき)を忘れず、愚痴不足を言わず、随分つらかったが、十カ月して初めて実現しました」
ふりかえれば幼少期以来、師は人間関係や商売などで、数々の苦難を経験してこられました。信心の側から言えば、その苦難のレベルが次第に上がり、遂にこの段階に達したということでしょう。
その間、「こんなに信心しているのに、いいかげんにおかげくれたらと、何十回思ったか」しれなかったのですが、のちには、「いろいろの苦難と、おかげくれなかったために、信念も出来、改まりもできたのだ」と得心されました。
もし神さまが、「私に言うだけのおかげくれておりましたら、とても本当のおかげはこうむる事は出来なかった」、だから「おかげのなかったのが、おかげだった」とも、悟られたのでした。
つまり、そんな経緯があってこそ、「思うままのおかげ」にしていただけたわけで、それは玉水教会としての布教開始まで、あと少しという時期のお話です。そして、それから三年して、「言うままのおかげ」にもしていただけたのです。
ですから師は、そうなるまでに「十七年ばかりかかってますな。しかし、何年かかってもかまわん」と言っておられます。「本当にここまで来れば助かりですが、骨は折れます」 けれども、「そこへ行けば本当に楽です」とも。
(37)人助けの「腕」ができたら、天地が放っておかなかった
『それは、日露戦争で旅順が陥落した明治三十八年一月のことです。道広教会の稲垣先生から、突然、「金光様のお言葉だから、土佐堀で布教を始めたらどうか」というお話です』
「我が信心のあゆみ」(大正十三年出版)にそう書いておられるごとく、師は当時通っておられた教会の先生から、唐突に開教を勧められました。
けれども前に紹介したとおり、師は「先生になるのが嫌だった」「教会所を持つのが嫌いだった」ので、将来の望みとして、「商売で成功してまとまったお金を作ってから、全国をまわってお手引きを」と思っておられました。
またそれについては、若い男性に兵役の義務があった時代ですから、「せめて子供が兵隊すむまで、それで商売も子供に譲ってから」と思っておられ、その年齢の見当として、「五十から御用さして頂くつもり」にしておられたのです。
そこで、さっそくご本部に参拝され、三代金光様にその旨を申し上げられました。
すると、「まだ時期が早いように思われますので」という師に、金光様は、「人がかれこれ言うのが時期じゃ。時期が来た」とおっしゃいました。
教祖の奥城にも参って祈念し、あらためて猶予を願われましたが、
「その方は、金が欲しいのか」
「いえ。信心すれば、このとおり世の中もままになるという、見本を作りたいのです」
「その方が欲しくないのなら、欲しがってる者に持たしてやってくれんか」
「そんな難しいことは嫌です」
「難しいことを言えとは頼まん。その方の安心の得られたところを、教えてやってくれたらよいのじゃ」
こんなお言葉の結果、遂に師も、「ご神命」拝受の決心をされたのです。後年、そのいきさつに関して、師は概略こう言っておられます。
私は五十からの御用に備えて、「腕は十分こしらえておく必要が」あるので、「腕を磨くよう、功をあせらんよう」「目的を急がず、反対に腕を急いだ」。その結果、「腕ができたから、その腕を天地が認めてくれたら、ほっとかん」「急がばまわれで、(自分の見当よりは)十五年早く教会を持ちました」
そして、「大抵は、できてもいない腕を自分で認めて、勝手なことをやるから、失敗の憂き目はまぬがれない」のだとも、言っておられるのです。
(38)ただ、祈りのみを「布教資本」として、 長年にわたる勤めを開始された
ともあれそんなわけで、師は開教の準備を始められ、それまでの商売は無償で親戚の男性に譲り渡して、土佐堀裏町の布教所に移られました。もちろん家族揃ってですが、その前に、師は奥様に「別れ話」を持ちかけておられます。
突然のことですから奥様は、「私にどんな粗相があって、そない言われるのですか」と、顔色を変えられました。
いや。そうではなく、私はこれから好きなことをして死のうと思っているのだ。好きな仕事のことだから、私は一命を失ってもかまわないが、あんたにまでその側杖(そばづえ)を食わせて、死ぬ思いをさせるのは本意ではないから……
言葉を濁される師に、奥様は「仕事って、何をなさるのですか。それで骨になるのなら、死なばもろともです。死んでもかまいません」と言われ、そこで師もご神命をうちあけられて、布教の厳しさについて、念を押されたのです。
これまでと違って、お金の入るあてがない。まかり間違えば、飢え死にしなければならないかもしれない。とにかく死ぬことを覚悟してかからなければならないが、付いてこられるだろうか。どんなに難儀しても愚痴を言わず、死んでもままよというのなら、別れなくてもいいのだが……
かくして、奥様もその覚悟を定められた結果、明治三十八年(1905)、師が三十六歳になられて三カ月余りの四月二十日が、お取次の御用始めの日となりました。
お金五円と、お米一斗五、六升持っただけの布教開始でしたから、その前後には信心友達が心配して、一年間の家賃を出そう、米代を持とうとも言ってくれました。しかし、それは善意の言葉ではあるものの、ご自身の信念に反するので、師はすべての申し出をはねつけられました。
私はいま、昔の武士の「晴れの一騎打ち」のつもりでいるのだ。横からの手出しは一切無用。武運つたなく倒れたら、その骨を拾うのが本当の友達じゃないか。邪魔をしたら許さんぞ……
裂帛の気合いがこもった言葉ですが、けれども現実の姿としては教えに従い、「出歩いて助けに行くのでもなければ、東西屋(チンドン屋)やビラで触れ歩き」をするわけでもない。
「病気不時災難不都合不幸せなる氏子、または天地の御恩を知らぬ氏子も共にお引き寄せ下さいまして、信心さして頂き、安心のおかげをお授け下さいますよう……」
この願い、その祈りのみを「布教資本」として、以後、亡くなられる昭和十九年(1944)の二月一日まで、連日連夜、さらなる苦難に出遭いつつも、勤めに励んでいかれたのです。
(39)師の人生は、曲折の前半生と、一本道の後半生からなっていた
この連載、前回までは、明治三年(1870)に誕生された師の幼少期から始め、明治三十八年(1905)の、玉水教会の布教開始に至るまでを紹介してきました。
読者の皆様には、師の前半生の苦難にみちた道筋や、ご神縁を頂かれてのちの猛進ぶりなど、あらましはご理解いただけたことと思います。そこで最終回の今回は、総集編として、その「まとめ」をさせていただきます。
師の前半生をたどるなかで、まず浮かびあがってくるのは、「苦難の連続」という事実です。
幼くして父親を失い、親戚に預けられて、子供心にもつらい思いをされました。当時はまだ義務教育ではなかったとはいえ、小学校も三年でやめさせられ、親戚の家が鮮魚問屋でしたから、その手伝いをして働くようになられました。そして十代前半から店の切り盛りをまかされ、前々からの大きな負債に泣き、あまりの苦しさに、自殺寸前にまで追い詰められたこともありました。
一念発起して大阪へ出てからも、奉公先の主人が身勝手な人だったので、商売の金策や、不義理の尻ぬぐいに苦しまれました。さらに、ご自身で小売り商売を始め、結婚されてからも、借金が増えたり子供を何人も亡くしたり、「よくまあ、これほど」と思うほどの難儀がつづいたのです。
しかし、それであきらめず、自暴自棄にもならず、幾たびもどん底から這い上がられたのは、「なにくそ負けるものか」という気概と、「親大切」の心、そして瀕死の病いを治してもらったことで生まれた、神さまへの思いゆえです。
その意味で師の人生は、苦難を乗り越えつづけた曲折の前半生と、ご神命によって布教を開始して以降の、(苦難はさらにつづきましたが)一本道の後半生からなっていたと言うことができるでしょう。そしてその道筋を、悩み迷いつつも前進していかれた根底には、師の性格や気質に、負けん気、激しさ、潔癖性、さらには強い向上心があったからだと思われます。
かくかくの特性を持った人間が、しかじかの境遇に置かれたので、これこれこういう人生を歩むことになった。そこには大きな「めぐり」も関係していたのですが、その取り払いも含めて、これはやはり、神さまのおはからいがあってのことだろうと感じさせられます。
もちろん、それは師が神さまを求められたからこそのおはからいであり、「求めた」のか「求めさせていただけた」のか、師は当然後者の思いを持っておられたことでしょうが、「神縁まことに不思議にして」という拝詞が思い出されます。
(40)師の遺徳はいまもそのまま残り、人助けの土台になっている
ともあれ、師はその前半生の経験を踏まえ、後半生は、亡くなられる昭和十九年(1944)まで、ひたすら人助けのお取次ぎに励まれました。無論、ご自身の信心を進める努力にも怠りはなく、その修行の厳しさに接した方の、「人間わざとは思えなかった」という回想が残っています。
また、晩年に到達された境地については、「いまの私の信心を人に言っても理解してもらえないから、わかりやすいおかげ話をしているのだ」という、ご自身の言葉も記録されています。
そして、その努力によって玉水教会は、「土佐堀の金神さん」という愛称で広く知られ、普通の日にも一日一万人の参拝者があるほどの、巨大な「徳」が示される教会へと成長していったのです。
「まだ足りん。まだ足りん」と、常に自戒督励をつづけられた結果のことであり、したがって、「絶対に」という形容を使った次の言葉も、単なる強調ではなく、まさにそれが事実であることを確信されてのものなのでしょう。
「祈りが空に消えることは絶対にない」
「本当の金光教を伝えさして頂きたい。本当の金光教が衰える、亡びるという事は絶対にない」
一方、連日連夜のお取次ぎとともに、師は信者さんへの教話にも、日々、力を注がれました。
「話を聞いて助かる道」という教えにのっとり、話しだすと時間を忘れてしまう熱心さで、「汲めども尽きぬ泉のごとく」という形容そのままに、ご自身の体験や信者さんのおかげ話などを題材にして、信心の本道を伝えていかれたのです。
そして、その内容豊富でわかりやすいお話は、現在、『湯川安太郎信話』全十六集として刊行されています。そこには明治から昭和戦前という時代の、大阪を中心とした市井の生活、風俗、人情なども示されていて、興味深く親しみやすく読める、信心の案内書となっているのです。
またさらには、大きくて高いものになった師の「徳」は、ご帰幽後もそのまま「遺徳」となり、歴代大先生のお徳も加わって、布教百十年に達した玉水教会の、人助けの土台になっています。
そして私たちは、そこに参らせていただいている者の集まりです。「祈りが空に消えることは絶対にない」という断言を頂き直し、「本当の金光教」信者をめざして、信心を進めていくべき立場であろうと思われます。
(了)